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「緑川組~MOVE~」 2010/6

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『東欧でサクラ咲く。』

投稿日時:2010/06/30(水) 00:11

 はるか遠く、東欧の地で繰り広げられた世界の戦い。『IRBジュニアワールドラグビートロフィー』においてU20日本代表として戦ったCTB春山悠太(文2)がチームに帰ってきた。語られるJAPANの誇り、そして大舞台での経験談。サクラのジャージにそでを通した若きCTBの独白。



選ばれたのはいつですか。


3月に候補が決まって、試合とか見て選考していたらしいです。正式に選ばれたのは5月でした。高校時代はJAPANへの憧れがかなり強くて、ギラギラしていました。でも、最近は特にはなかったんですよね。気楽にできてたから逆に良かったのかなって。昨年の4回生が強くて、関学のチーム自体が注目されていたので。4回生のおかげですね。それに、高校の時にも候補には選ばれてたんで、それも関係していたのかもしれないです。

あと、芦田一顕さん(人3)も選ばれてて、怪我がなければ最後まで残る人だったんですけど、結局は(関学から選ばれたのは)僕1人だけになって。みんなの分まで頑張ろうって思いましたね。自分の見ていないところで、上の人とかも動いてくれてたと思うんで、感謝して頑張ろうと思いました。


実際ロシアへ行ってみて、どうでしたか。


 僕にとって、初めての海外で、しかもロシアで長期っていう気は重かったです。食事も自分に合わないって分かってたし(笑)。僕、チームの中でも一番神経質なタイプだったんですけど、肉も魚も味付けが外人向けで、パンしか食べられなくて、つらかったです。お腹が空いたから食べるっていうよりも、詰め込んでたって感じでしたね。ずっと日本のご飯が食べたかったです。水とかの衛生面も日本の方が良くて。慣れない環境っていうのは行く前から知ってたんですけど、トレーナーの方が対処してくれて、ゲームに響くことはなかったです。


全試合スタメンで出場ということで、世界を相手に戦ってみてどうでしたか。


高校でも大学でも、決勝とか全国大会とか、それなりの舞台経験はあって、その緊張とか気持ちの高ぶりはあったけど、日本代表となるとちょっと違いましたね。日本代表として、国歌も歌って。緊張よりも「国を背負って戦ってる」っていうプレッシャーの方が大きかったかもしれないです。それに、チームとしての位置づけというか目標が「優勝」だけで。1つのプレー、1つのミスが響くし。

でも、毎年何人も選ばれる関東の大学に比べて、関学が選ばれることは稀なんで。失うものなんかないぐらいの気持ちでいつも全力でやってたから、大舞台でも楽しんでたかもしれないです。


●出場記録<IRBジュニアワールドラグビートロフィー>


5月18日 31—17ロシア 12

5月22日 20—20ジンバブエ 12

5月26日 38—17カナダ 12(~後半6分)

5月30日<決勝> 7—36イタリア 12(~後半13分)


※太文字は背番号/参考:日本ラグビーフットボール協会ホームページ


外国の選手の体格やプレーに関してはどうでしたか。


初めて外国のチームと試合したんですけど、日本人とは全然違いますね。僕と同じポジションの選手でも、30㌔差ぐらいはありましたよ。関西の大学にも外人はいますけど、体は大きくてもプレーは日本人なんです。体に関しても外人にしては小柄な方ですし。デカイ体とか足の速さとか、体格を生かして粗めで攻めてくるんですよ。それに比べて日本は、低さ、速さ、連携で勝負しますね。


チームの雰囲気はどうでしたか。


選考が始まって、一週間ごとに徐々にメンバーが決まっていく感じで。チーム内競争もあるし、合わないところがあるのも仕方ないけど、その不安をいかになくすかが大事だと思ってました。レベルが高い選手が集まってるんでみんな頭いいんですよ。監督の言うこともちゃんと理解してるし。ちゃんとコミュニケーションがとれる状況でしたね。僕たちは良い結果ではなく、優勝しに行ってて、1試合でも負けたら終わりだったんで目標失うし。だから初戦のロシア戦は特に重要でしたね。チーム、スタッフ、監督、みんなが一つになって勝てました。でも2戦目のジンバブエ戦で引き分けて。これは気の緩みでしたね。でもこれをきっかけにチームがすごくよくなりました。そして3戦目のカナダ戦がベストゲームでした。チームの雰囲気がすっごい良くて、試合前のアップも、試合の入りも、ゲーム内容も、最高でした。僕たちは「JAPANのラグビーを貫こう」ってずっとやってて。体の小ささを活かして、低さ、速さ、激しさ、走り勝つの4Hをチームテーマにして徹底してました。でも決勝のイタリア戦は、試合運びで負けましたね。向こうは他の国よりも考えてきてて、僕たちの4Hが出し切れなかったというか、出させてもらえなかったです。まだまだ4Hの精度が足りなかったです。ロシアとかには通用しても、イタリアには及ばなかったもっと精度をあげていくしかないですね。体の大きさはハンデに感じなかったです。


チームのバイスキャプテンとしてはどうでしたか。


僕、そんな器持ってなくて(笑)。上の人に指名されて、「なんで俺?」ってめっちゃ悩んでたんですよ。そしたらプレーもうまくできなくなって。でも、そこで自分なりに解釈したらふっきれましたね。コーチに「口とか態度で引っ張るんじゃなくて、プレーで一番走ってたし、一番声出してたから選んだ」って言われました。僕は一応JAPANの選考よりも前から4Hは意識してて。僕の4Hを見て、選ばれたのかもしれないです。


行って良かったですか。


良かったです。最初は行くの断ろうかと思うぐらい嫌で(笑)。関学の練習への不安、食事のこと、授業への影響も、バイスキャプテンのプレッシャーもあって。ロシアのご飯も自分に合わないってわかってたし。でも、プレーにしても気持ちの面にしても、学んだことはいっぱいあります。いろんなものを犠牲にしてでも行く価値はすごいありました。天理大のトニシオ・バイフと両センターでパートナー組んでて。めっちゃいい奴で、JAPANで一番すごい奴だと思ってました。練習にも真面目で、尊敬してましたね。今度試合で戦うかもしれない奴ですし何かしらありそうです(笑)。



▲6月19日の総合関関戦では、帰国後初のAチームでスタメン出場


どうして大学選択の時、関学を選んだのですか。


ラグビーを本気でやるつもりはなくて勉強を頑張りたくて、将来のことも考えて関学に来ました。その時はラグビー部はそんなに強くなくて。でも入学する頃には関西で優勝するようになってました。今では本気ですラグビーが中途半端だと勉強も中途半端になる。強くなってくれて良かったです。すごい良いチームで関学好きです。


とりあえずBチームへ復帰ということですが。


そうですね。帰ってきてすぐAは厳しいです。「JAPAN行ったから即Aチーム」っていう考え方はないんで。センターの実力に関しては、JAPANより関学の方が強いと思います。人数多いし、レベル高いんで、ライバル多くておもしろいです。燃えるし、負けたくないです。Aチーム入りの分け目は運とかケガとかもありますけど、安定感が大事だと思います。ケガとか気持ちとかプレーにムラなくできたらなって。


昨リーグではAチームでしたが、どうでしたか。


開幕戦でレギュラー入りして、その次の試合は外れて、あぁもうないな、って。でもここで体とか、自分の弱点が見えたんですよね。体が小さくて不安もあったけど、太朗(吉原太朗・人2)に体当てる練習とか付き合ってもらって。そこで成長していって、今の自分につながったんじゃないかなって思います。


今年の目標は何ですか。


JAPANに選ばれたことへの誇りは持ちたいです。でもそのことはそのことなんで、一旦忘れて、レギュラー取って。去年は先輩についていってたんですけど、今年は主力になって頑張りたいです。


ありがとうございました。



■春山悠太(はるやま ゆうた)/文学部2回生/天理高校/CTB/178㌢。85㌔


(構成=篠原沙耶/取材日=6月12日)

『スピリッツ短信』06/23

投稿日時:2010/06/23(水) 22:44

『スピリッツ短信』6月23日

●主将・緑川の受難。戦線復帰待ちわびる


 

 

6月も下旬にさしかかり、上半期も大詰めをむかえている。だが彼にとっては災難続きの苦い一月になっている。ケガで離脱した主将・緑川昌樹(商4)はどうも戦列に完全復帰できずにいるのだ。




 始まりは6月5日の立命大戦。後半に左足を負傷、フィールドの真ん中で絶叫し倒れこんだ。試合後に顔をゆがめながらインタビューにこたえた。そして翌週の六甲クラブ戦は欠場。2週間の離脱を経て、ようやくの復帰戦となった同月19日の総合関関戦ではリザーブとして後半からの出場を果たす。が、またも後半に今度は右足を負傷。相手に乗られた形によるものだった。ゲーム終わりには歩くのもままならぬ状態で悲痛な表情をうかべる。完全復帰は遠のく一方だ。

 

 そもそも緑川には、ケガとは疎遠、というイメージがある。入学してこのかた、戦線離脱はあまり記憶にない。実際のところ、負傷はしているのだが。今年の5月の関東学大との定期戦でも公にはされていないが、ダメージを負った。それでも気丈にふるまい、レセプション後にはすぐさま病院に連絡を取った。その気丈ぶりには意地でも「離脱をしない」「早々に治す」といった心持がにじみでていた。たとえ負傷しようとも、早く手を打ち、最大限のパフォーマンスを発揮できる状態で次に挑む。緑川昌樹のプロフェッショナルな一面といえよう。


 しかし、やはり今年も主将のジンクスが襲った。毎年の関学ラグビー部主将がケガに見舞われる、離脱を余儀なくされる、という嬉しくない運命。シーズン前に緑川は話していた。「ケガだけはしたくない」。チームを引っ張る者としての決意がそこにはあったに違いない。


 総合関関戦で傷を負った主将は週明けの練習をリハビリ組に混じって行なった。「だいぶマシにはなった。今週は調整で」。病院の診察ではプレーはできると言われた。だが同時に、ぶりかえす恐れも示唆された。偶然にもAチームはスケジュール上2週間の空きがあることも重なり、ケアに専念することにした。むろん練習が終わってから患部を冷やす際には、まわりのやんちゃな部員たちから攻撃を受け、発狂するのだが。


 受難続きのキャプテン。復帰時期については明言はさけている。だが完全復活の鐘が鳴るとき、フィールドで大暴れする背番号2の姿がそこにあるだろう。誰もが、待ちわびている。■

▲氷漬けのバケツに足を突っ込み、患部を冷やす。周囲から水をかき混ぜられるなどイジメられ、苦い表情。


災いか、ハプニングか?関関戦でまさかの


 その瞬間、会場の空気が止まった。関関戦直後のレセプションで緑川がまさかのミスだ。これも災いか、えてして悪いことは続くものである。


 事はレセプションも終わりにさしかかり、締めの部歌の交換に入ったときのこと。関大側が終わり、お次は関学の番。主将が前に出て、音頭をとる。


 「うえがーはら、ふーるーえー」


 (会場沈黙)


 そう、部歌の音頭は「甲の山下」だ。だが、主将は意気揚々と校歌の方を叫んでしまったのだ。ぴたりと空気が止んだのち、苦笑いに包まれテイク2ではしっかり部歌を斉唱。会を締めた。


 ラグビー部の逆転勝利もあり、今年の総合関関戦で関学は総合優勝(2年連続)を果たした。その知らせに「そうスか!それが一番」と目を輝かせた。校歌を叫んだのも、愛校心の表れということで。



▲ゲーム前、声をはりあげ校歌を歌う。愛校心が爆発したか

『スピリッツ』vol.11

投稿日時:2010/06/20(日) 02:24

 代役で終わらせない!総合関関戦でWTB安部都兼(経2)が2トライ、コンバージョンキックも7本を成功し、チームの勝利に貢献。レギュラー争いに名乗りをあげた。




【存在感】


 レギュラー争いに殴り込みだ。WTB安部が総合関関戦で存在感を放った。前半の重苦しいムードから逆転に成功し、突き放したい展開。後半7分に左端にトライを決めると、後半31分にもゴール左端へ飛び込んだ。上半期にそのほとんどを任されているコンバージョンキックも7本(9本中)決め、この日ひとりで24得点をあげる活躍を見せた。


 「キックとかランの部分」が自身の持ち味と話す。コンバージョンは中学生時代からその役を担ってきた。ゴールキックを蹴ったのちにゲームがリスタートする、それが安部のサイクル。放った楕円球がポストの間を通過すれば、自然とプレーに勢いがつく。その逆で、プレーがリズムよく出来ているときはキックの成功率もあがる。試合中におりなす相乗効果で己を高めている。


【前向き】


 シーズン序盤からAチームに名を連ねる。しかしスタメン定着にはあと一歩といったところ。6月に入ってからはWTBとして先発出場しているが、主力メンバーが離脱している現状が裏にはある。それでも「競争ができて楽しい。それが正直な気持ち」とレギュラー奪取に前向き。たとえいまは代役でも、いずれはスタメンにその名を刻んでみせる。


(記事/写真=朱紺番 坂口功将)

イメージポスター<総合関関戦>WEB限定

投稿日時:2010/06/18(金) 14:45

 熱戦を繰り広げている第33回総合関関戦。6月19日にはラグビー部も試合が行われる。その関関戦のイメージポスターをWEB限定で公開。日本で一番有名(?)なアノ剣豪の映画に倣って、本作は・・・

<ポスター>


■6月19日/関大中央グラウンド/13時キックオフ

▼『関学スポーツ』総合関関戦/特別企画ページ▼

『山本有輝のROOKIESな日々』最終回

投稿日時:2010/06/17(木) 02:17

 終わりを目前に大変長らくお待たせしました。シリーズ連載、いよいよ最終回です!


【最終回】

 2月上旬。引退特集のインタビューが西宮北口周辺の喫茶店で行なわれていた。取材が終わり席を立つ。最後に聞いた。

 

もうラグビーはしないの?


 「やらへんよ!」


 それから数ヶ月、いや数週間か。山本有輝は関学ラグビー部に帰ってきた。


 厳密にいえば、カムバックという言葉はふさわしくないかもしれない。けれども、フィールドには確かにその姿があった。


 学生コーチへの就任。もとより、やりたい気持ちはあったという。


 「ラグビーは関わりたいなって。卒業危ないからコーチするのも悩んでて。そしたら健太(田中=CTB=)もやるし、就活も決まって。(何もせず)このまま5年目しても(笑)。それで、コーチという形で貢献するのもありかなって」


 学生プレーヤーは引退した。次は、学生コーチだった。




 いま学生コーチとして、またはそれに準ずる存在として現役部員たちへの指導に当たる山本や片岡将。彼らは、どこか特異な存在に見えた。学業等の諸事情で、在学するいわば5年生。プレーヤーではない。引退はした。けれども、どこか現役のような雰囲気を漂わせる。文字どおりの〝学生〟コーチ。


 「選手と近いやん」


 山本は話す。それを象徴する場面が以前あった。


 5月5日の関学ラグビーカーニバルのこと。『1回生vs2回生』試合などすべてが終わっても、グラウンドには人影があった。本企画のインタビューを山本へ行なっていると、1年生が寄ってきた。フィットネスやアタック面について質問をぶつける。それに答える山本。すると横でワンツーマンで指導していた片岡と原田も来た。それからは雑談も交えながら、技術面、精神面問わず熱いトークが繰り広げられた。


 部員がコーチに教えを乞い、質問をぶつけるのはおそらく普通の関係。だが、そこには先輩・後輩という図式がより色濃く表れていた。だからだろう。気兼ねなく話せる現役部員と、腹を割って向き合う学生コーチの姿があった。


 「ホンマやったら知り合わんやん。会ったとしてもよそよそしいし」(片岡)


 これがもし、引退し卒業もした社会人1年生のコーチだったらどうだろうか。おそらく1年生はどこか萎縮したはずだ。(それでも山本と片岡の2人なら早々に打ち解けそうだが




 事情はあるにせよ、学生であることが奏功した。言い換えれば、5年目の部員。4年生で幹部学年となり引退して、ラグビー部の酸いも甘いも身に染みて知っている。4年間を過ごした経験談に加え、それゆえの説得力もある。


 時代は変われども、本質として変わらない、関学ラグビー部の代名詞である『学生主導』。就任してまもないルーキーコーチの存在は、立場違えどもそれを実感させるものであった。(完)


【エピローグ】


 コーチ業のかたわら、プレーへの思いは募っている。それは口にはめているマウスピースからうかがえる。


 「フィットネスもやるし、体当てもガチでやる」


 春先、学生プレーヤーとして続けることも考えたことがあった。


 「うっすら、やろうかと。けどリアルに卒業が危なくなるから、やっぱ卒業せなアカンって。悩むほどじゃないけど、考えて(笑)」


 やがて学生コーチの道を選んだ。そのうちプレーへの思いが芽生えたのだろう。くわえて周りを見れば片岡や田中健太ら同期の面々が、ラガーマンとしてプレーを続けていることに触発もされた。


 そしていま、楕円球を再び追いかけるイメージが山本の頭にはある。


 「むっちゃ、やりたいで!社会人なってもクラブチーム入って、やるから」


 インパクトプレーヤーの闘姿を見られる日はそう遠くないかもしれない。




 ルーキーズの総監督を経て、ジュニアチームの指導に当たる山本にある問いをぶつけてみた。

関学じゃなかったら、コーチはやってない?


 「関学やから、やったんちゃうかな。他は分からんけど、4年間やってきたから。やろうと思わせてくれたんは、関学イズムが。そういうのがあって、いまがあるかな」


 かねてより関学への愛校心を説いていた山本。以前こう話していたことがある。


 「後輩とかには、絶対エエで!って言うてるもん。思ったことないもんね、他大学が自分たちのとこを言うような、イヤやねとか」


 関学だから、学生コーチ・山本有輝が生まれた。山本有輝だから、関学の学生コーチができた。この1年間で終わるには、その関係は心惜しい。けれどもこの1年間だけだから成立しているのもまた然りである。 


(記事=朱紺番 坂口功将)

 

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