大きくする 標準 小さくする

「緑川組~MOVE~」

『稀代の存在。』

投稿日時:2011/01/24(月) 17:41

 あれから一ヶ月あまりが経とうとしている。緑川組の戦いが終わり、4回生たちは戦闘服を脱ぎ、その様はまわりの大学生と大差ない。今季トレーナー代表を務めた大崎怜(商4)が引退そして卒業を前に、自身の4年間を振り返る。




シーズンが終わって1ヶ月ほど経った。どう過ごしている?

大崎「最初は高校ラグビー見に行ってていまは鬼のようにヒマです」

 

関学ラグビーのことは考えたりした?

大崎「(近くの後輩に目をやりながら)こいつらが、いつ練習始めるか、とかまだ決まってないみたいなんで、どうなるんかなって」

 

出身である高等部は素晴らしい成績(全国3位)を挙げた

大崎「嬉しかったし、すごいなと思いました。ひたむきにディフェンスやって、勝ってて。勇気もらえるじゃないすか!全国ベスト4、すごいことやし」

 

 

本題に入ります。務めてきたトレーナー、始まりは

大崎「大学から。中学からラグビー始めて、高校の頭はプレーヤーしてて1年生のときにドクターストップが入って。プレーするのは離れました。2、3年生は高等部のマネージャー的なことや、下級生の指導したり、手伝いとか」

 

そこから大学でもラグビー部への入部を決めた

大崎「父親が監督をやっていたのもあって、ビデオミーティングみたいなのを月曜日に家でやってたんです。そこで、大学生スゲェな、って。大学生でやることを目標にやっててラグビー辞める気もなかったし。

 陸(藤原=総4=)と長野(直樹=社4=)ぐらいじゃないっスかね。高校のときに、大学も続けるのを決めてたのは」

 

大学に入ってからは

大崎「2こ上に内藤(誠泰=経卒=)さんがいて、内藤さんが大学のスタッフやってるイメージしかなくて。これがしたい!ってのは無かった。いまみたいにトレーナーとマネージャーが分かれてなくてマネージャーは事務、トレーナーはグラウンド、みたいな。それやったらグラウンドにいようと」

 

そうして始まった大学ラグビー生活

大崎「トレーナーが内藤さんしかいなくて、ゲーム前のアップやフィットネスとかぼくの相手してくれる人がいなかった。最初の1年間は水を運んだり。ラグビー部に何かしたかって言えば、何もしてない」

 

『これがしたい』が芽生えたのは?

大崎「2年生なったくらいに徐々に内藤さんの実技をやらせてもらってやっと部に触らせてくれるように。同学年への仕事が増えてきて、けどトレーナーとして頼りにされることはなくてまともにやりたいことを考えだしたのは3年生から。内藤さんの後ろを追っかけて、いなくなったときに困ると。内藤さんと同じことが出来るようになろう!と」

 

3年目は

大崎「トレーナーとして、テーピングだったり細かい事務的なことを愛(西嶋=商卒=)さんがやってくれてたんで。それくらいにレフェリーやって、って話なったんで3年生の春に資格取りにいった。そこから自分の形が」

 

ラストイヤーに臨んだ

大崎「不安でシャアなかったスね。チームとしては、いて当たり前な代がいなくなってこれ勝てんのか、ほんまに大丈なんかな、って。

 スタッフは僕が上になり、自分の仕事を回すのは出来たけど、愛さんがやってくれてた裏方業をとりあえず聞いて、穴埋めを。有紀ねぇ(伊藤=人3=)と梨絵ちゃん(竹中=人3=)が埋めてくれたんスけど、問題なく」

 

4年目の自身の役割は

大崎「トレーナーが『メディカル』と『フィジカル』に分かれて。辰見さんがフィジカルを総括、長瀬さんがメディカルで。体調管理だったりをメディカルに振った。岩尾(佳明=経3=)はトレーニングの勉強をしたいって話で。

 となったときに、部員数が増えたのもあって、グラウンド回すことをやらないと回らないと。グラウンドを外から見てる時間より、中にいる時間の方が多かったんで、練習メニュー考えたり、笛吹いたりしました。

 トレーナーとしては、フィットネスもウエイトも岩尾が特化したいと言ってたので、そっちはサポートに。僕は下請けで良いと思ってたんスけど、まわりが勝手にやってくれた」

 

スタッフもかなり増えた

大崎「増えて僕は上に2人しかいなくて。増えたものの、次の3回生の子らは何をしたらいいか分かってないんかな。自分のしたいことをするのが良いんかなって。それで今年はうまく回ったんで」

 

岩尾の例しかり、適材適所が

大崎「適材適所に回ってくれただけかもしれないス(笑)」

 

 

先に話にも挙がったレフェリーは3年生の

大崎「春っスかね、取ったのは。一応、合格通知が(笑)

 プレーもしてたし、ある程度知ってたんスけど、ルールもすべてが文章なんですよ。試験は○×と実技で、難しいというか、どうなんやろう、って。実技試験は緊張しましたよ。知らないクラブチーム同士の試合に行って、やった。初めてグラウンドの中に入ってレフェリングするのは緊張しました」

 

部内では数少ない学生レフェリーに(当時は玉泉啓太=社卒=も)

大崎「先輩もルールを聞いてくれたり。そのときに、下手に答えられないんで。自分も勉強する意欲が」

 

部内マッチで笛吹くことも。緊張する?

大崎「(資格取って)始めての3年の菅平のBチームの試合で、吹いてくれ、って頼まれて。最初はチームのレベルアップのために吹けたらと考えてたんで、いやでした(笑)。結局、レフェリーさんが来てくれたんスけど。

 菅平から帰ってきて、コルツの摂南、大産、同志社大の3試合を吹いた。そこから、部内マッチも普通に。慣れ、で」

 

秋には部内での実戦形式の練習でレフェリーに就く場面も

大崎「レフェリーがいなかったら、ラグビーは練習出来ないんで」

 

レフェリングは大変?

大崎「大変っスね。試合中に選手たちって熱くなるじゃないスか。そこで自分がミスジャッジしたのが分かってて突っ込まれたりしたら、気まずいっス(笑)。テンパっちゃったりも。

 他の試合で、部員たちがジャッジに文句言ってても、レフェリーさんの肩持つようになりました。『大変やねんで』って」

 

学生レフェリーの存在は、もう部にいなくなる

大崎「萩井さん(HC)にも言われたんスけど、たぶんレフェリーの面でも。ぼくらが20人台の最後の代であの人数やと練習が回らない。今年もグランドのなかで2面使ってAD(実戦形式の練習)します、となったときに下のチームの4回生がレフェリーやったりすることもあった。(レフェリーが)いないと回らない。

 そろそろアメリカン(フットボール部)とか上手いことやっている部活を倣って。トレーナーの仕事じゃないと思う。学生コーチであったり、レフェリーだったりがいても、それにこしたことはないと思う。フルタイムのコーチがいないぶん、そこは自分たちでやらないといけない」

 

 

辰見さんや内藤さんから始まり、いまやスタッフも役割が定まり、自身は時代の狭間にいた気がする

大崎「狭間で、何をしたらいいか分からなかったぶん、何をしても何も言われなかった。内藤さんの仕事を引き継いでから、やりたいことが出来た。3、4年目はやらせてもらえたかなと」

 

これから後を担う後輩たちへ残したいメッセージがあれば

大崎「次の4年生は心配してない。僕よりトレーナーに向いてるし、しっかりしている。うまいことやってくれると思います。

 下級生は、けっこう不安です。選手の上に立つわけじゃないスけど、信頼されてナンボの仕事。いまは何をやったらエエか分からないってのがあるから、この時期に、あいつらが頑張るかで春にシーズンが始まったときに、スタッフの出来が変わってくる。自分に責任がある、っていうのを思うだけじゃなくて形にしてほしいと。2年生は、今年1年間でラグビー部に慣れたと思うんで、トレーナーとして勉強を学んで、苦しんでくれ、と(笑)」

 

最後に、あらためて大学4年間を振り返って

大崎「楽しかったし、この生活じゃなくなるのは寂しい。高校3年間で、花園に行けず、狭間の世代と言われた学年。大学もバラオさん(小原正=社卒=)たちの代に隠れて、『大丈夫なんか』と言われてスタートしたし。上を目指たところで、勝てなかった。一番上の成果を挙げられなかったのは、正直悔しい。来年に、つないでくれたらと思います」

 

OBとして応援にまわる

大崎「仕事が東京っぽいんで。いつの日か帰ってこれたら。中、高、大が勝ってくれたら文句ない!と。」

 

 楕円球への思いから、プレーはせずとも、何らかの形でこれまでラグビーに携わってきた大崎。スタッフとして、トレーナーとして献身的にチームを支え、一方でレフェリーとして部のレベルアップに貢献した。そのポジションに就く者が今後現れるかは定かではない。おそらく彼しか出来なかったことだから。

 それでもこの先、いま以上にスタッフも役割が細分化され専門的になっていくなかで、大崎の存在は一つの道しるべになると思える。■(取材/構成=朱紺番 坂口功将)



■大崎怜/商学部4年生/関西学院高等部/トレーナー代表