「小原組~ALL OUT~」
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エピローグ
投稿日時:2010/03/22(月) 19:35

インタビュー『ALL-OUT。』
投稿日時:2010/03/19(金) 23:53
【『小原組ブログ ~ALL-OUT~』最終回】
小原組が発足し、日本一の目標を掲げ、彼らは常に全力を出してきた。その道のりで肉体改造に励み、走りこみ、試合に勝ち、負けもした。やがて関西2連覇を達成。その後、国立へはあと一歩及ばなかったが、泣いてそして笑ってシーズンを終えた。
先頭に立っていた小原正(社卒)へのラスト・インタビュー。
―引退してから、どのように過ごしていた?
小原(以下、O)「ラグビーとは離れて、自分がやりたいことを毎日やってきたかな。いろんなスポーツ見て、やって、友達と話したり。
気づかんかったんやけどね。明治大戦が終わってすぐ帰ったんやけど…同窓会で友達に電話したら『正、おかしいぞ。元気ないし』って。そういう空気を出したつもりないし…けど実は落ち込んでたんやなって。他人から見て、自分の気持ちが全く違う。そんだけ大きかったんやなって、負けたんが。
落ち着いて遊んだり、それで気が晴れた。オレは(大学選手権の)決勝も見たし、花園もトップリーグの優勝も見たのは見たかな」
―ちなみに明治大戦のビデオは?
O「1回だけこっち帰ってきて、ヒマやって部室いて。見たんやけど、前半見てイライラして、切って帰ったんや。歯がゆいし、こんなミスして、いつもと違うことして、これって関学か?って。
見よって面白くないし、悔しいし…そんな気持ちなるから、(偶然居合わせた)小島も『見られへんわ』って。オレも『帰るわ!』って」
―なら1試合丸々は…
O「見てないね。見切れんかった。(同期の話も聞いて)みんな同じ気持ちやってんやって。同じ悔しい気持ちあって、みんな良い仲間やったな」
―選手権の決勝は見た、と。国立のピッチをテレビで見て、どう感じた?
O「あそこに絶対立ちたかったな思うし。ホンマは立たなあかんなって。くじ運も良かったし。『明治は強い』っていうのが変にあって、けど勝てるんちゃう!?って。慢心があったと感じたし…最後は力尽きたって感じ。国立行く前に体力的にもやけど、キツかったんかなって。もっとプラン考えてやっとけばな。あの場所にいってからの過ごし方とかを、これからの関学は考えてやったらいいと思う。それは経験やから、どうしようもないけど」
―引退してから、考えたりした?
O「(ビデオ見た)あんときは、みんな元気ないな、とか、こうやってれば、とか。それ以降はラグビーのことは考えてないな」
―1年前、小原組が発足したときは覚えてる?
O「始まったときは、とにかく何も分からん状態やって。でも逆に、どれだけやれるんやろうって希望があった。はじめのときは、色々考えて、こんなメンバーやったらイケるんちゃうって。期待…うん、期待が大きかったかな」
―目標を『日本一』に掲げた経緯は?
O「1回目のミーティングやったかな。オレは日本一になりたいなってすごい思ってたし。そこで『もう1回、無難に関西制覇して地盤つけていくのは重要』とか『国立ベスト4』とか。『決勝へ行こう』っていうのも。それやったら、優勝でいいと思うところを(笑)。
最初はそれぞれでイメージ出し合って。それでみんなが、『バラオがキャプテンやねんから、最終的に決めたらいい!』って言ってくれて。なら『日本一になろう』って言った記憶がある」
―そして実行に移した
O「日本一になるために、何が大事かって話しになって。まず、体デカくしよう、と。スピードもデカさも違うし、どこで勝負するにも、関東に勝てるとこは関西にない。だから、フィジカルで勝負しよう、と。無理にでも体重増やして、しんどいかもしれんけど、絶対活きてくるからって」
―部員のなかでは反発も少なからず出た
O「説明不足がダメやったな思うんやけど…。後輩にちゃんと理解してもらった状態でシーズン入ればなって。『体デカくすれば、走れんくなる』には目をつぶろうと話してたけど、『どうなんや』って後輩から意見が出てきて。チームもばらばらになって、負の連鎖が始まった。
みんな嫌々なりに努力してくれて。今年みんな頑張りよんなってキャプテンとして感じてて。それが嬉しくて、頑張りよるやつにバカは見せたくないって気持ちあった。陸(藤原=総4=)とか結果出してくれて良かったなって。
けど春の一番大きなゲームの慶應大戦は、一昨年(初優勝のとき)のメンバー中心に組まなあかんくて。それに出たいがために筋トレ頑張ってきたのに『何でなん!?』って。すごいチームのムード悪くなって、そんときはどうしたらいいか分からなくなった。それでオレが落ち込んでもしゃあないし…それでも無理やった。慶應大戦でケガしてしまったのもあるし、そんときは苦しかったな…。小原組の底辺かな」
―自身がケガしたのは大きかった?
O「ケガして逆に良かったんやないかなって思う。最初は『ヒザかよ』ってヤバいイメージあって。ケガしたことで、みんな頑張ってくれて。(翌週の)同大戦は将が活躍してくれたり。キャプテンがおらんところを、みんなが引っ張ろうって踏ん張ってくれた。
オレも外で何もしないのは違うから、コーチがおらんなかで、出来ることはアドバイスして、プラスになることを。そういう期間かな。あそこでケガしなかったら、パフォーマンスは上がってた思うけどね(笑)」
―そこからチームが上昇したのを感じたのは
O「急激に良くなったのは感じんかったね。じわじわ後輩が納得してくれたんかな、と。強いチームと戦うことで悪いところが出てくる、後輩が指摘してくる、それは『勝ちたい』と思ってるから。オレらの気持ちも後輩が理解してくれたし。
立命大戦では、熱いんやけど、ビーバー(山本有輝=文卒=)とかがチームトークで積極的に声出してくれたんが。意見が出たのが、勝ちたいってことなんかなって。一生懸命必死なってくれたのが、成長したなと思った。
このままいってほしい、と。そこらへんからかな、チームが変わったのは。文句とか言う前にチームのことを考えるようになったのは。納得してなくても、理解してくれたという、それがね」
―そしてリーグ開幕をむかえた
O「一戦一戦やるしかないやろって。菅平も負けっぱなしで。自信がないわけやないんやけど。初戦が摂南大やったんが大きいね。別に先を見通しとった試合は一つもないし、試合をひとつひとつ大事にやっとかな、下手したら負ける思ったし。天理大も強い言われてたし、どうなるんやろって」
―関西2連覇。前回の優勝との違いを感じたりは
O「一昨年は関西制覇したとき嬉しかったっちゃ嬉しかったんやけど…4年間で嬉しかったのは一昨年の同大戦!!あのときは一番嬉しかったんよ!!言葉では伝わらないんやけど、関西制覇したときよりも嬉しかった…。もちろん今年もしんどかったから嬉しかったよ、集合写真撮ったりして」
―同大を倒せるようになるとは思ってなかった
O「入ったときはまさか、ね(笑)。1年のときに合宿で征克(西川=文卒=)がすごくて、『絶対関西制覇は無理』って言ってて…オレは福岡の公立高校から来て、知らんかったからね。関西制覇して『やったったな!』みたいな。ほんま、まさか、やね」
―自分たちは両極端なシーズンを知っている代。前半2年間と後半2年間で変わった点は何だったか
O「本気さの質…かな。やっぱりどの人も勝ちたい気持ちは一緒や思うし、強かったと思う。けど心のなかから勝ちたいと思うやつが増えた。そう思っている人が増えたし、その思いが強くなったのも。そういう感じが」
―ラストイヤー、自身のプレーは覚えてる?
O「自分のプレーは覚えてないな。考えて動いてなくて、関学というチームで動くから。一昨年よりはタックルは良くなったかな思う。サポートプレーがだいぶ。派手なプレーはないし、(それに)徹したのはある」
―主将としての大変さを感じたのは
O「やってみて感じた。こんだけ大変なんやって。この大変さは…伝えにくいね。ラグビーが好きやったから楽しかったのはあるし、一方でラグビーをこんだけ考えた日はなかった。精神的にも肉体的にもキツかったけど、楽しかったというか…好きなことやりようから」
―目指していたリーダー像とは
O「イヤなプレーもせなかんし、言葉でも、言わなあかんときは言わなあかん。自分の出てるとこには責任を持たなあかん。それ以外に関しては優しくありたい思ったし。後輩にはコミュニケーション取りたかったなっていうのがあった。そういうイヤなことして、メリハリつけれて、コミュニケーション取れたのが、リーダー像。みんな大人やしやりすぎるのは良くない、みんな上手いから」
―明治大戦の直後、後輩たちへ『来年には来年のカラーがある』と話していた。小原組のカラーとは
O「チームの雰囲気としてはメリハリをつける。常にラグビーを考えている人も必要やねんけど、オンオフ切り替えて。やるときは、しっかり遊んで。それは去年のカラーや思うし。
プレーに関しては『FW』は自信あった。正直3本の指に入るんやないかなって。帝京や東海に負けるかって言われたら、そうは思わへんし。BKも良かったし。『FW』に自信あったとは言えるかな」
―とくにFWは4回生が中心だった
O「むちゃくちゃ、やりやすかった。一昨年から多かったんやけど、オレが1年のときとの大体大とかは4回生が多くて。4回生が多いと、しんどい練習も、やろうぜ!ってなる。一番見てきたやつが多いわけだから」
―4回生の大切さを実感したときは
O「春とか、まとまりなくて、オレらの代。やるときやればいいやんって。その空気が練習には入ったりして。でも最終的にはダミー持ってくれたりしたときは、『いってこいや!』って言われたりして。そんときは嬉しかったな。4回生がおらんかったら、こういうふうに涙流せんかったな思う。なかなかあのアップは出来へんと思う!タックルして涙して…あれが無かったら負けてた試合もあった」
―レギュラー入りして3年間出続けた印象がある
O「運が良かったのもあるし…ホントにみんながね、まわりの仲間に支えられた。ひとりで頑張ったんじゃなくて。1回生で試合に出れず悔しくて、でも頑張れたのは一緒にやってくれた仲間がおったから。
そんなやつらが頑張ってくれたら、頑張らんわけにいかん。オレが出来ることはすべてやりたい…やから日本一になりたかった。最高の結果が、日本一やから」
―後輩に伝えたいことはある?
O「日本一になってくれってことかな。とにかく日本一になるためには、みんながチームのことを思って、行動したりラグビーを考えたり、毎日取り組むことが大事。考えてやっていくのが日本一への近道。いまはプランがない、それは関学自体が発展途上やから仕方がない。そういう伝統を作っていくためにも、一生懸命取り組むことで変わってくる。
体重増加計画も、やらんかったら結果にならん。一生懸命考えて必死に練習して、つながっていくことが日本一になる。酷やけどね、みんなが一つにならな」
―関学ラグビー部での4年間を振り返って
O「申し分ないし…ほんとに入学させてもらった人とかのおかげやし。機会を与えてもらったOBさんのおかげやし。いろんな人のめぐり合わせで関学に入れたことに感謝してる。関学に入れて良かった…」
―最後に。バラオ自身『ALL―OUT』はできた?
O「去年1年間はALL―OUTしたと思ってる。やれることはあったかもしれんけど、オレがやれることはやり尽くした。そう言える気持ちやから、オレはALL―OUTできたと思う!」
(取材・構成=朱紺番 坂口功将)
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小原組ブログの最終回、ラストインタビューでした。同時に、小原正から仲間へ贈るメッセージ『24のありがとう』もご覧下さい。
『24のありがとう。』
投稿日時:2010/03/19(金) 22:44
ともに戦った同級生たちへ。小原正から送るメッセージ。
植村元司(社卒)へ
「色々と頭からスクラム組んでくれて。試合で関学のために先頭立って、1番も3番もやってくれてありがとう」
大滝真史(社卒)へ
「一番体重計画を頑張ってくれて。嫌々言いながら増やしてくれた。大滝がトライ決めてくれたから関学は優勝できた。メリハリが上手な先輩やった思う。ありがとう」
岡本隆太郎(社卒)へ
「ほんとに一番筋トレとか頑張るし、スクラムも頑張ってくれたり。体も張ってくれて、隆太がおらんかったらここまで頑張れたか分からん。4年間一緒に頑張ってくれてありがとう」
御野悠昇(法卒)へ
「去年からHOしてもらって。レギュラーなれんかったけど一生懸命やってくれたし。筋トレも数値すごいし。いい刺激になった。御ちゃんのタックルすごかった!いいプレーしてくれるから、後輩も頑張ってくれた思う。ありがとう」
北野慎平(法卒)へ
「4年間努力し続けて。最後もラインアウトの研究してくれて。助かったし、慎平が大産大の試合にリザーブで出れたことは、努力は報われるって勇気を与えたと思う。ありがとう」
呉政俊(経卒)へ
「体むちゃくちゃ張って、一番はやくグラウンドに来て、トレーニングしてたのが政俊。下のチーム引っ張って、熱い気持ち伝えてくれたから感化したと思う。ありがとう」
近藤譲(法卒)へ
「幹部会とかで考えてもらったりして、『しんどい』とか言いよったけど、一生懸命、玉と一緒に下のチームのためにメニュー組んでくれたし。譲がおらんかったら、誰が見てたか分からん。ありがとう」
佐野卓也(法卒)へ
「ヒザの靭帯、3回も切れて。そんな大きなケガしたのに、最後までラグビーして。アタックのやわらかさとか後輩に『スゴイ』思ったやつおるし。体で引っ張ってくれて、ありがとう」
田中健太(法卒)へ
「バイスキャプテンで健太が頑張らなあかん、言われて。Aチームに上がれん時期あったけど、レギュラーなって健太がおらんかったらヤバいって言わせるぐらいの選手やし。なくてはならない存在になってくれて、ありがとう」
玉泉啓太(社卒)へ
「分析もやってくれたし、下も面倒みてくれたし。頭のなかにもっとしたいことのイメージあった思うけど、玉がおったおかげで、下のチームがまとまった。面倒見てくれて、ありがとう」
西川征克(文卒)へ
「1年からレギュラーやって。プレー面とかすごいし、人一倍のプレーしてくれて。あれが無かったら、いまの関学はなかった思う。もっとのびのびとサントリーでプレーしてほしい。頑張ってほしい。ありがとう」
西嶋愛(法卒)へ
「3年の途中からトレーナーなって、色々大変やった思うし、勉強してたのも見てたし。チームのために一生懸命良くなるようにしてくれたから、みんな頑張れた。ありがとう」
畑中崇志(社卒)へ
「ほんと最後まであきらめんと努力し続けたから明治戦に出れた。『崇志にレギュラーなってほしい』ってみんなから言われるリーダーで最高やった。引っ張ってくれてありがとう」
平岡翔太郎(経卒)へ
「ずっと一緒にAチーム出たい言うてて…叶わんかったけど、翔太郎の強さとかあって、みんな良い刺激なって。ラグビーもよう知ってるからアドバイスくれたし。おらんかったら、ヤバかった。一生懸命4年間やってくれて、ありがとう」
藤井琢真(社卒)へ
「最後、明治戦終わったときに泣いてたんが。そう思ってくれてたんやと感じた。スクラムとか良いアドバイスしてくれて、明治戦も『思いっきり当たれや』って言ってくれて安心できた。ありがとう」
増尾友甫(社卒)へ
「ミーティングとかで熱いこと言ってくれて、良い刺激になった。ラグビー知ってて、分析も一生懸命やってくれて。プレーはヒザ悪くて出来へんかったけど。ありがとう」
松岡良(経卒)へ
「もともとBKやったのに、FWなって。すごいトリッキーなプレーとかしてくれて、こういうプレーしたらいいんやないかって思わせてくれたし。ラインアウトも貢献してくれて、ありがとう」
松川太郎(経卒)へ
「ほんと松太郎がおらんかったら…何回もダイナミックプレーでチーム救ってくれたし。ディフェンスの練習も最後まで残ってやってくれたし。一緒にペア組めて良かったな思う。ありがとう」
松田竜輔(文卒)へ
「すごい熱いし…必死にやってくれたから、『もっとオレも頑張らな』思った。お互いいい刺激くれたから。みんなのモチベとかに関わってくれたプレーヤーやった。ありがとう」
山本有輝(文卒)へ
「ケガしよるときにAチームで出て。オレより良いプレーしとるんや思うくらい!チームを毎回毎回、鼓舞してくれて元気与えてくれた選手。ありがとう」
山本真慶(経卒)へ
「スポットライトは当たらんかったけど、最高の選手や思う!しゃべらんけど…(笑)チームを助けてくれて、ありがとう」
小田村智子(文卒)へ
「チームのために案とか出してくれてって聞いてきて。で、『協力するから』って言ってくれて。案とか考えてくれたから、チームがうまく回った。ありがとう」
小島祥平(文卒)へ
「一緒に悪いとことか処理してくれて。チームのことを一番に考えてくれたやつ。自分を犠牲にして、やってくれたプレーヤーや思うし、ほんとにありがとう」
片岡将(総卒)へ
「一緒にキャプテンとバイスキャプテンでやらしてもうて、将で良かったな思うし。オレがケガしたときも引っ張ってくれた。自分が苦しかったときも、頑張ってくれた。最後まで一緒にやれて良かった。ありがとう」
※3月18日の卒業式および功労賞授与式から、表記をすべて(卒)としています
<番外編>
朱紺番へ
「今年ほんまに、こんなんしてもらえんかったら、裏の部分とかOBさんも分からんかった思うし。関学ラグビー部のいろんな部分を取り上げてくれて、ほんとうに。ジョッキーの『朱紺スポーツ』に載るために、『オレが!』っていうやつもおったし。みんなのモチベーション、ステータスになったと思う。4年間、ありがとう」
『克己』後編:山本有輝
投稿日時:2010/03/17(水) 19:52
【シリーズ連載第4弾】
松田を誰よりも慕う男がいる。「中学のときから尊敬する先輩。むっちゃリスペクトしてるんよ、今でも。松くんと花園でやりたかった思う」。言うならば師弟関係。ケガで苦しんだ師を敬うこの男もまた、降りかかった運命に打ちひしがれた。
山本有輝の4年目。念願のAジャージは、もう手の届きそうな位置にあった。だが、すぐそこのところで届かなかった。
「1、2年のときはメンバーに絡んだりしてたけど、3回生のときは落ち目で。まわりはどんどん上に上がってて、4回生なったときは焦って。(就任した)ウェイトリーダーを、自分を変えるためにもって。春から出たろう、と」
並々ならぬ思いでシーズンを迎えた。そして4月20日の京大との定期戦から第一歩を踏み出す。
「京大戦でファーストで出て。ちょっと見えてきたんちゃう?って(笑)。4回生がおらんときに、おらんなりにやって…試合はほとんど出れとって。けど、4回生の合流が怖かった。それでも必死こいてやって」
Aジャージをめぐる部内での戦いは山本にとって何よりのカンフル剤だった。
「それぐらいの緊張感あった方が。調子こいちゃうくせあるから(笑)」
気を緩めることなく、山本は着々とトップチームに近づいていた。それだけの力量は、備わっていただろう。けれども、現実は彼が望むものではなかった。
6月の慶応大との交流試合。地元の花園開催とあって「慶応大戦に出る」が彼の上半期最大の目標だった。しかし、それまでの試合でAチームに名を連ねていたものの、この試合に限ってメンバーには選ばれなかった。
「(メンバーから)落ちたときは、だいぶ落ち込んだ。すぐ帰って泣いたもん」
思えばこの現実が、山本の運命を象徴していたのかもしれない。
その半年後。リーグ戦を目の前にして、山本に悲劇がふりかかる。
練習が始まってまもなくのこと。テントの下に横たわるは、足を負傷した山本の姿。後に、骨折と判明した。
「人生で初めての骨折で。まさか、このタイミングで。バラオに報告の電話したとき、泣きそうなって」
春シーズンは慶應大戦以外、ほとんどをAチーム。夏合宿でもレギュラーに絡んでいた。リーグ戦で、念願の朱紺ジャージを―その矢先の出来事だった。
「全治3ヶ月。4万円くらいの高い機械借りて…リハビリしっかりやって。
ケガしたけど前向いとって。気持ち切れんと。また違う熱さが。またやったろう!って」
持ち前の明るさが、奏功したか。驚異の回復力を見せ、戦線にカムバックする。11月29日天理大戦。ジャージの色は今度こそ、朱紺だ。
「いっちゃん美味しいところで!あれは嬉しかったね~。
優勝のプレッシャー無く、Aのプレッシャーも無く。オレが出てる!っていうアドレナリンが。セットプレーからの出場で、そこいくまでにバテたり。あの距離は長く感じた。
ただ出場した5分間はあっというまに終わったって感じ」
念願の舞台の味をさぞかし味わったことだろう。優勝を決めた後の記念写真では、誰よりも前に出てきて、喜びを表現したのであった。
さてここで、思った人もいるのでは? 復活できたし良かったじゃないか、と。確かにAチーム入りを果たした。だが、運命は男を振り回す。
選手権で同大との『花園再戦』が決まり、直前合宿ではAチーム入り。意気揚々と先頭体勢になったものの、ロスターに名前は無かった。
ここで初めて、山本が内に秘めていた思いが明らかになった。悔しさをあらわに話す。
「…花園に縁が無いなって。地元のやつを呼びたかった。それが叶わず…縁は、無いね」
春の交流戦に続いて、花園での試合に限って、外された。そういう運命だったとしか、かける言葉がない。
本人が何よりも分かっている。「ずっと中途半端なポジション」だったと。
だから、あえて聞いてみた。Aで通用する、Aでやれる自信はあったか―?
「うん!負ける気はせんかったし…もっとチャンス欲しかったね。持ち味がタックルと雰囲気づくり(笑)。まわりからインパクトプレーヤーって言われて、流れかえられるのは、求められてた気がする」
ならば、ともう1つ質問。リサーブがハマリ役やったんじゃないか―?
「後半からの方が得意やねん。前半じっくり見て、さぁ行こうって思うのが好き。練習試合とか2試合目の方がエンジンかかったり。
(ハマリ役)…かな!」
やがてリザーブとして選手権2回戦(場所はやはり花園ではなく、瑞穂)に出場。戦いの終焉をピッチでむかえた。
「明治大戦の20分…ホンマやったろう、って。何ができたわけではなかったけど、何かせなあかんな、と」
流れは変わることなく、ノーサイドの瞬間。
「最後にあそこにおれたのが意味がある。ラグビーやってて、あそこにおれたのとおれんかったのでは意味が違うかった。良かったんかな…」
それもまた、彼にとってチームを代表して戦うことをとくと感じた時間ではなかっただろうか。
話を聞くかたわらで、取材ノートにメモをした。『ジェットコースター』と。ときに急上昇し、急降下する。運命に翻弄された山本のラストイヤーはジェットコースターと呼べるのでは…。
それでも、闘志が一度たりとも潰えなかったのは山本〝らしい〟ところ。そして心から望んでいた部分には残念ながら縁が無かったのも、彼〝らしい〟。そう思えて仕方がない。
ケガの果てに松田と山本の両人の結果自体は、ま逆だった。戦列復帰が叶わなかった者と、叶った者。けれども、共通することはある。それは『自分に打ち克ち、あきらめなかった』ことだ。松田は恩師の言葉を、山本は持ち前の明るさで克己を果たした。だからこそ、笑顔で引退できる。
これから、同じような境遇にみまわれる部員が出てくるかもしれない。そのときは、自分にしかない心の糧を活かし、己に打ち克つことだ。それが関学ラグビー部における、その人の存在意義となるのだから。■
(文=朱紺番 坂口功将)
■山本有輝(やまもと ゆうき)/文学部4年生/大阪桐蔭高校/LO/181㌢、97㌔
———————————・———————————
長らく更新が止まってしまい、申し訳ございませんでした。これにて、シリーズ連載は終了します。今回、6人の部員に話しを聞き、必ず出てきたのが「仲間への感謝」でした。エピソードの関係上、省いた部分もありましたが、本当に小原組というチームが恵まれていたのだと実感しました。
さて、小原組ブログもいよいよ終着点に向かいます。主将・小原くんへのインタビューで締めくくりたいと思います。どうぞお付き合い下さい。
『克己』前編:松田竜輔
投稿日時:2010/02/21(日) 13:46
【シリーズ連載第4弾】
残酷な運命に直面したとき、人は何を思うのか。そこから前に進もうとするとき、何が背中を押すのか。松田竜輔(文4)は1年間を通じて怪我に悩まされ、どん底でもがき苦しんだ。山本有輝(経4)はときに運命のいたずらに翻弄(ほんろう)され続けた。引退したいま、2人があのときの心境を明かす。
あれは春のシーズンが始まってまもなくのこと。チームは対外試合13連戦に意気揚々としていた。そして男にとっても、卒業後の進路も決まりラグビー一色で臨もうとしている矢先の出来事だった。
4月26日、天理大戦。関学第2フィールドは雨だった。
松田は、あのときの一挙一動をじっくりと思い出しながら話し始めた。
「向こうがA、BチームでこっちもA、Bやったんかな。後半から出て10分経ったうちに…。
相手が左から右にステップ切って、まっすぐにこっちにきた。そのまま来るんかなと踏んでタックルいこう思って。そこから相手が横に動いて抜かれる思ったから、足をかろうとしたら。(腕が)相手の左ひざに入った」
ケガをした、その瞬間は。
「尋常じゃなく痛くて。けど見たら、腫れてないし…。
そのあとスクラムでLOのパンツ持った瞬間、骨が鳴って。試合出来へんわ、って」
後半のゲームリーダーを務めていた松田。またとない大役を任された以上、それでも「出たい」気持ちがあった。加えて、まわりの部員が持つ『松田=痛がり』というイメージへの反骨心がその気にさせた。だが事態は深刻で続行は不可能、すごすごとベンチに下がった。
「自分から『出してくれ』って言ったのに下がった自分に腹が立ったし…。戦線離脱したのが悔しかった」
気合十分で臨んだそのたった10分後、松田は奈落の底に突き落とされた。
全治2ヶ月の骨折。医師も「手術しなければ始まらない」と言うほどのもの。不安な気持ちに苛まれながらも、手術を受けた。
「今季のゲームは厳しいかな」
そう感じていても、ひとまず次に進むために。
その天理大戦の日、試合終了後に松田は監督から呼び出された。グラウンドに隣接する関学スポーツセンターの一室に足を運ぶ。大崎監督と萩李ヘッドコーチの姿。そこで指揮官から受けたのは、学生コーチへの転身の打診だった。松田の怪我と指揮官の思惑のタイミングが偶然にも一致した。負傷したいま「チームのために出来ること」を考えていた松田は悩んだ。一見ありがたい話しを受けたにも関わらず。なぜなら学生コーチへの転身はすなわちプレーヤーを辞するということだったからだ。
そのときは返事を保留。その後しばらく悩みに悩んだ。
やがて出した答えは、プレーヤーのままでいる、だった。そう決断させたのは、仲間の一言。松田は振り返る。
「(話し合いの)あのあと、新グラ(第2フィールド)に行ったらベンチにみんなおって。あんときもう、みんな知ってたんやろうね。帰るときに『宮本むなし』行こうか!ってなったときも『いつもとちゃうぞ…?』と感じた」
確かにあの天理大戦の日、4年生たちは傷ついた仲間の進退について案じていた。雨が降り、日が暮れたあともベンチで話し合っていた。
「で何日かあとに、門戸厄神の『じゅとう屋』で問い詰められて。『松くん、おれらに話すことあるやろう?』って。みんな真剣に考えてくれてて」
その話し合いの果てに、小原(社4)や片岡(総4)が言った。
「ラグビーやりたいと思ってる人を犠牲にしてまで、オレらは日本一になりたくない」
その一言に松田は胸を熱くした。
「自分がラグビーをすることで、部へのいろんな還元の仕方あるし。ラグビーやりたいな、って」
右腕にギプスをつけてもなお、松田はラガーマンであり続けようと決めた―。
だが、ここで物語が終わるわけではない。悲劇はまたしても彼のもとに舞い込んできたのである。
上半期が終わり、8月に突入。1次合宿も終わりにさしかかった頃だった。練習中のたった一つのプレーの際、相対した選手のすねに右腕が当たってしまう。痛みとともに、数ヶ月前のシーンがフラッシュバックした。
「痛いし…。それでフラッシュバックして、怖くて、泣いてて」
駆けつけたトレーナーもお構いなしで、恐怖に涙した。
右腕に走る激痛。同じ箇所だ。けれども、医師の診断は予想外にも「何もない」だった。レントゲンは何も示していない。原因不明のまま、2次合宿をむかえた。痛みは、あった。
別メニューをこなしながら、菅平合宿に突入。中央大Bとの練習試合への出場が決まったが、痛みを伴う右腕をかばいながらのプレーが続いた。周囲からは「右腕使ってへんやん!」と野次と冗談まじりの、心配する声が上がった。やがて監督に呼ばれ、ベンチに下がった。
「ほんま痛すぎたから。やりたい気持ちあったけど…」
ラストイヤーの菅平。1試合だけでは終わりたくなかった。朝鮮大との試合で20分間出場したが、翌日の帝京大C戦では出番が無かった。
この頃から底なし沼のような絶望感に松田ははまっていく。
「『何もない』ことはない」と感じていた右腕の症状は、帰阪後にやはり骨折と判明。その痛みは、否応がなしに練習時でも支障をきたすようになった。モール(このころ部をあげて練習では時間を割いていた)では、痛みが爆発。シーズンが始まっても、バック持ちさえ出来ない。後輩たちには「背中で見せなあかん」と思っていてはいたものの…。
「苦しくて…あんときはラグビーを辞めたかった。練習が嫌やった。けど、やらんかったら後輩はついてこないし。ジレンマ感じた」
仲間の支えは十分に感じていたものの、それすら打ち砕く負の連鎖に松田の心はボロボロだった。
どん底の男を救ったのは何だったのか―。それを問うたとき松田はある言葉を口にした。
「〝美しき闘いを、最後の夏に〟」
それは彼が恩師と慕う先生からそのときに与えられた言葉だという。
「合宿終わったときかな、相談してて恩師の方から『ひとりでもいいから、松田さんがおって良かったな、と思ってもらえるような人になれ』と」
後輩には諦めた姿を見せたくない。やるからには本気でやる。師からのアドバイスを受け、関学でラグビーをやり切ることの意味を再認識した。それは、松田竜輔という選手がいた証を残すためであると。
苦しんだ半年間のことを、記憶をたどりながら松田は語った。事細かに。その一方で、夏以降のことは記憶に刻まれていない。
「(試合などに)出た記憶はあるけど…消えてる。なんでやろう…」
あまりにも苦しまされたからか。そして、その反動だろうか。
右腕には手術痕(あと)と思われる傷がくっきりと残る。それは、勲章でも何でもない。学生生活最後に味わった苦い思い出の痕跡。
松田は話す。
「いろいろと考えたなかで、プラスにはなる思う。苦しい時間を乗り越えたことが人生で役にたつ思うし」
最後に聞いてみた。後輩たちに背中を見せれたか。
「それは…分からん!(笑)。うん…分からんけど、打ち上げで後輩から『僕も頑張れました』とか言われたときに、やって良かったかな、っと」
苦闘―。苦しみと闘った男の勇姿は、きっと後輩たちの心に届いているはずだ。
<後編・山本有輝に続く>
(文=朱紺番 坂口功将)
■松田竜輔(まつだ りゅうすけ)/文学部4年生/八尾高校/FL/171㌢、87㌔
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