「小原組~ALL OUT~」
『克己』前編:松田竜輔
投稿日時:2010/02/21(日) 13:46
【シリーズ連載第4弾】
残酷な運命に直面したとき、人は何を思うのか。そこから前に進もうとするとき、何が背中を押すのか。松田竜輔(文4)は1年間を通じて怪我に悩まされ、どん底でもがき苦しんだ。山本有輝(経4)はときに運命のいたずらに翻弄(ほんろう)され続けた。引退したいま、2人があのときの心境を明かす。
あれは春のシーズンが始まってまもなくのこと。チームは対外試合13連戦に意気揚々としていた。そして男にとっても、卒業後の進路も決まりラグビー一色で臨もうとしている矢先の出来事だった。
4月26日、天理大戦。関学第2フィールドは雨だった。
松田は、あのときの一挙一動をじっくりと思い出しながら話し始めた。
「向こうがA、BチームでこっちもA、Bやったんかな。後半から出て10分経ったうちに…。
相手が左から右にステップ切って、まっすぐにこっちにきた。そのまま来るんかなと踏んでタックルいこう思って。そこから相手が横に動いて抜かれる思ったから、足をかろうとしたら。(腕が)相手の左ひざに入った」
ケガをした、その瞬間は。
「尋常じゃなく痛くて。けど見たら、腫れてないし…。
そのあとスクラムでLOのパンツ持った瞬間、骨が鳴って。試合出来へんわ、って」
後半のゲームリーダーを務めていた松田。またとない大役を任された以上、それでも「出たい」気持ちがあった。加えて、まわりの部員が持つ『松田=痛がり』というイメージへの反骨心がその気にさせた。だが事態は深刻で続行は不可能、すごすごとベンチに下がった。
「自分から『出してくれ』って言ったのに下がった自分に腹が立ったし…。戦線離脱したのが悔しかった」
気合十分で臨んだそのたった10分後、松田は奈落の底に突き落とされた。
全治2ヶ月の骨折。医師も「手術しなければ始まらない」と言うほどのもの。不安な気持ちに苛まれながらも、手術を受けた。
「今季のゲームは厳しいかな」
そう感じていても、ひとまず次に進むために。
その天理大戦の日、試合終了後に松田は監督から呼び出された。グラウンドに隣接する関学スポーツセンターの一室に足を運ぶ。大崎監督と萩李ヘッドコーチの姿。そこで指揮官から受けたのは、学生コーチへの転身の打診だった。松田の怪我と指揮官の思惑のタイミングが偶然にも一致した。負傷したいま「チームのために出来ること」を考えていた松田は悩んだ。一見ありがたい話しを受けたにも関わらず。なぜなら学生コーチへの転身はすなわちプレーヤーを辞するということだったからだ。
そのときは返事を保留。その後しばらく悩みに悩んだ。
やがて出した答えは、プレーヤーのままでいる、だった。そう決断させたのは、仲間の一言。松田は振り返る。
「(話し合いの)あのあと、新グラ(第2フィールド)に行ったらベンチにみんなおって。あんときもう、みんな知ってたんやろうね。帰るときに『宮本むなし』行こうか!ってなったときも『いつもとちゃうぞ…?』と感じた」
確かにあの天理大戦の日、4年生たちは傷ついた仲間の進退について案じていた。雨が降り、日が暮れたあともベンチで話し合っていた。
「で何日かあとに、門戸厄神の『じゅとう屋』で問い詰められて。『松くん、おれらに話すことあるやろう?』って。みんな真剣に考えてくれてて」
その話し合いの果てに、小原(社4)や片岡(総4)が言った。
「ラグビーやりたいと思ってる人を犠牲にしてまで、オレらは日本一になりたくない」
その一言に松田は胸を熱くした。
「自分がラグビーをすることで、部へのいろんな還元の仕方あるし。ラグビーやりたいな、って」
右腕にギプスをつけてもなお、松田はラガーマンであり続けようと決めた―。
だが、ここで物語が終わるわけではない。悲劇はまたしても彼のもとに舞い込んできたのである。
上半期が終わり、8月に突入。1次合宿も終わりにさしかかった頃だった。練習中のたった一つのプレーの際、相対した選手のすねに右腕が当たってしまう。痛みとともに、数ヶ月前のシーンがフラッシュバックした。
「痛いし…。それでフラッシュバックして、怖くて、泣いてて」
駆けつけたトレーナーもお構いなしで、恐怖に涙した。
右腕に走る激痛。同じ箇所だ。けれども、医師の診断は予想外にも「何もない」だった。レントゲンは何も示していない。原因不明のまま、2次合宿をむかえた。痛みは、あった。
別メニューをこなしながら、菅平合宿に突入。中央大Bとの練習試合への出場が決まったが、痛みを伴う右腕をかばいながらのプレーが続いた。周囲からは「右腕使ってへんやん!」と野次と冗談まじりの、心配する声が上がった。やがて監督に呼ばれ、ベンチに下がった。
「ほんま痛すぎたから。やりたい気持ちあったけど…」
ラストイヤーの菅平。1試合だけでは終わりたくなかった。朝鮮大との試合で20分間出場したが、翌日の帝京大C戦では出番が無かった。
この頃から底なし沼のような絶望感に松田ははまっていく。
「『何もない』ことはない」と感じていた右腕の症状は、帰阪後にやはり骨折と判明。その痛みは、否応がなしに練習時でも支障をきたすようになった。モール(このころ部をあげて練習では時間を割いていた)では、痛みが爆発。シーズンが始まっても、バック持ちさえ出来ない。後輩たちには「背中で見せなあかん」と思っていてはいたものの…。
「苦しくて…あんときはラグビーを辞めたかった。練習が嫌やった。けど、やらんかったら後輩はついてこないし。ジレンマ感じた」
仲間の支えは十分に感じていたものの、それすら打ち砕く負の連鎖に松田の心はボロボロだった。
どん底の男を救ったのは何だったのか―。それを問うたとき松田はある言葉を口にした。
「〝美しき闘いを、最後の夏に〟」
それは彼が恩師と慕う先生からそのときに与えられた言葉だという。
「合宿終わったときかな、相談してて恩師の方から『ひとりでもいいから、松田さんがおって良かったな、と思ってもらえるような人になれ』と」
後輩には諦めた姿を見せたくない。やるからには本気でやる。師からのアドバイスを受け、関学でラグビーをやり切ることの意味を再認識した。それは、松田竜輔という選手がいた証を残すためであると。
苦しんだ半年間のことを、記憶をたどりながら松田は語った。事細かに。その一方で、夏以降のことは記憶に刻まれていない。
「(試合などに)出た記憶はあるけど…消えてる。なんでやろう…」
あまりにも苦しまされたからか。そして、その反動だろうか。
右腕には手術痕(あと)と思われる傷がくっきりと残る。それは、勲章でも何でもない。学生生活最後に味わった苦い思い出の痕跡。
松田は話す。
「いろいろと考えたなかで、プラスにはなる思う。苦しい時間を乗り越えたことが人生で役にたつ思うし」
最後に聞いてみた。後輩たちに背中を見せれたか。
「それは…分からん!(笑)。うん…分からんけど、打ち上げで後輩から『僕も頑張れました』とか言われたときに、やって良かったかな、っと」
苦闘―。苦しみと闘った男の勇姿は、きっと後輩たちの心に届いているはずだ。
<後編・山本有輝に続く>
(文=朱紺番 坂口功将)
■松田竜輔(まつだ りゅうすけ)/文学部4年生/八尾高校/FL/171㌢、87㌔