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『WEB MAGAZINE 朱紺番』

湯浅航平『PRIDE or PRIZE』

投稿日時:2014/01/24(金) 12:00

 一秒でも多く、プレーがしたい。そこに降り立てば全身全霊を懸けるのみ。地にしっかりと足をつけ、男は逆境に真っ向からぶつかっていった。引退したいま、SH湯浅航平(人福4)が自身の戦いを振り返る。

<※学年表記は2013年のもの>

 

■湯浅航平『PRIDE or PRIZE』

 


 

 刻一刻とノーサイドの瞬間が迫ってきていた。2013年12月22日、全国大学選手権セカンドステージ第3節。畑中組にとって最後となるゲームも残り時間は10分になろうとしていた。


 「シーズンも、あと何分かな」


 ベンチから戦況を眺めていた湯浅は時計の針に目をやる。シーズンが終わることへの哀愁、と同時に、もう一つの思いが沸きだった。


 「出たいな


 最後だから、いや最後になっても、だ。常に彼の胸にあった思い。純粋なるそれは4年の歳月を経て、より濃いものになった。


 ジュニアリーグにAリーグ、と公式戦が幕を開けた秋口。Bスコッドが練習する関学第2フィールドにふらりと姿を現した湯浅は、シーズンの本格化に際してこう語った。


 「ここまで早かった。最後の年の公式戦でのリーグ。ここまできた、という気がします」


 そうして始まった本番の舞台で、湯浅はチーム内でフル回転の動きを見せた。ジュニアリーグではゲームキャプテンを担い、先発ならびにフル出場がほとんど。その翌日に行なわれるAリーグではリザーブに名を連ね、出番が回ってくればフィールドを駆け回った。


 一見すれば、勤続疲労の心配すらも浮かぶような出場機会の多さ。だが、それは杞憂に過ぎなかった。しんどくないですか?そんな愚かな問いかけに、湯浅はさらりと言い放ったものである。


 「それよりも試合に出たいですからね」



 週末に2日連続での公式戦出場を果たす。それ自体は、大学に入ってこの方、幾度と湯浅は味わってきた。けれども、そこにあったのは悔しさだった。「ジュニアにはけっこう出させてもらえてたんで、贅沢といえば贅沢ですけど濃い半年とは言えなかった」


 入学1年目、トップチームに選出され公式戦でスタメンに抜擢されたこともあった。だが、部内でも特段に層が厚いと言われるSH陣。当時の先輩には芦田一顕(人福卒=現サントリー=)や中西健太(経卒)らがおり、下級生次は彼らに続く立ち位置であった。翌3回生次は、春先こそレギュラーを掴んだかに見えたが、シーズンが進むにつれルーキー・徳田健太(商2)の台頭に後じんを拝する結果に終わった。


 そうした背景ゆえの、悔しさなのだ。Aチームのリザーブを選出するために求められる、ジュニアリーグでのパフォーマンス。レギュラーもといスタメンへの思いが強ければ、その図式が酷たる事実として映る。


 「その週の月曜日にメンバー発表の連絡がきて、名前が漏れていたりすると『またか』『何でや』って思うことはありました。まわりからしたら、発表自体はいつもどおりのことですけど僕自身が、それに慣れることはなかった」


 後に彼はそう胸の内を語っている。


 とはいえども、出場するからには全力を尽くす。そこは己を形成してきた舞台。ジュニアリーグに対して彼が並々ならぬ思いを持っていたのも事実である。


 副将に就いたラストイヤーは、それこそチームを率いる決心でいた。またジュニアリーグが開幕し次第に同期たちが戦列に加わったことも、弾みになった。


 「例年に比べたら試合に出る4回生が少ないなかで、途中から。BKがほとんど4回生で、健士郎(山内=CTB/教4=)や啓太(古橋=CTB/商4=)とのプレーがずっと続いて。FWも輝(長澤=FL/社4=)や三井(健太郎=LO/社4=)もいましたし、丸山(充=FL/社=)も。

 ジュニアで雰囲気を作れるか、って僕が言うてたんですけど、力でいうと助けられてばっかりでした」


 そのジュニアの面々は、リーグ戦において決勝戦まで突き進む。しかし栄冠を掴むには至らなかった。優勝がかかった大一番ではチーム全体の動きが硬直し、なされるがままに敗北を喫した。


 「その前の天理大戦が良い雰囲気で出来たのに、それを作れなかったのは僕のミスだった。今さら、どうできた、は無いかもしれないですけど。Aチームの奴も仲が良いし、ジュニアも特別な良いメンバーが揃っていた。勝ちたかったし、もっと出来たかなと。このメンバーがおったら、もっとやらなくちゃいけなかったと思います」


 勝ちたかった。その思いの強さが、いち個人として味わう苦杯を少なからず緩衝させたのかもしれない。シーズンの最中、やはり自身の置かれた状況が脳裏をよぎることもあった。けれどもジュニアリーグのこと、ゲームキャプテンとしてのことを考えれば、そのショックがプレーするうえでの足かせになるようなことはなかったというのだ。



 それでも、大学生活を綴るうえで彼が直面した事実を避けることは出来ない。チーム全体のレベルアップの水面下にある、激しきポジション争い。後輩SH徳田に明け渡したレギュラーの座。競技人生で〝初めて〟喫した敗北だった。


 レギュラー奪回を目指したラストイヤー。ライバルの壁は高く立ちはだかった。「徳田が持ってて、僕にないものも分かっていた。タイプでいえば全然違うタイプですけど、それを差し引いてもスピードだったり、ボールの捌き方の速さが上で。最初は受け入れられなかった」


 当初は、自負する強みであるキックや球の持ち出しの部分を磨き、勝負しようとしていた。しかしチームが求める動きとで相違があった。事実、リーグ戦においては『ノーキック』との指示が出されていたのである。


 個のアピールと、ピッチ上でのニーズ。そこのズレに対する葛藤はあったと湯浅は語る。けれども、出場機会を得るためにはどうあるべきかそれに気付く機会がすでに彼の身にはあった。


 「1年目のときは、僕自身好きにやれていた。そのプレーがあかんかったとは思わないですけど、チームの方向性に合ってなかったんだと。そこから2年目、3年目と試合に出れてない。3年生の春に出させてもらった試合でアピールは出来たけど、克服せずにシーズンを過ごして最終的に晃忠さん(SH/社卒)にも抜かれて。このままやったらあかんわ、って」


 むかえた4年目、ライバルに劣ると自覚し、かつチームから求められるテンポの部分を意識し磨いた。結果として、最後のシーズンでレギュラー奪取は叶わなかったが、リザーブとして投入されたフィールドではチームのリズムを加速させるプレーを見せた。


 「テンポを上げるラグビーのなかで、ボールの持ち出しもそうですし、自分のレベルを上げれたと。キックが一番と思ってたそれを捨てられたので。(プレーの幅が広がった?)そうですね」



 出たいな。大学選手権第3節、チームが朝日大と戦う様をグラウンド横から眺め、そう思いを馳せていたラストゲーム。残りも10分になろうとしたタイミングで湯浅に途中出場が命じられた。ピッチに繰り出し、正真正銘の学生生活最後のプレー時間が訪れる。


 「変にふわふわと緊張っていうか何ていうか、興奮した感じで。でも、決して悪い感じではなくて」


 言葉にしがたい感覚を抱きながらプレーし、ノーサイドの瞬間を迎えた。勝利で幕を閉じたこともあってか、「すっきりしていました」と晴れやかにそのときを過ごしていた。


 彼が歩んできた道のりは、それこそ辛苦をなめることが多々あった。レギュラー争いの渦中で、もがき苦しんだ。だが引退したいまは充実感でいっぱいだという。


 「1年目で試合に出れて、U20日本代表に選ばれたり、そのあとは全然出れなかったり。良いことも悪いことも苦しいことの方が多かったけれど、楽しかったですね。この一年は、一番充実してて色々なことが出来ましたから」


 ジュニアリーグにAリーグと、部内でも突出したプレー時間を戦った。そんな事実に「言われて初めて感じました」と目を丸くさせるほどの、充実していたラストシーズンだったのだろう。ただ、やはり


 「本当はAリーグ、先発が良かったですけどね」


 偽らざる本音を胸にしまいこむようなことは一切せずに、彼はにっこりと微笑んだ。そして、最後にこんな話を明かした。それは、出身校である京都成章高校の監督を務める父・湯浅泰正氏とのエピソード。


 「家では、ほとんどがダメ出しなんですね。『ディフェンスどうなってんねん』とか。けどね、そんな親父からこないだ誉められたんです。

 大東大戦のあとですかね負けたんで自分がどういうプレーしたかとかそんなに考えてなかったんですけど。『上手かった。あとはアピールだけや』って。

 びっくりしました。誉めるんや!って。親父にそう言われたのは自信になりました」


 聞くに、競技人生において父親から誉められたのは、このときがなんと2回目。それは湯浅航平が大学4年間を戦い抜いて手にした、ご褒美だったのかもしれない。(記事=朱紺番 坂口功将<広報担当>)




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