『WEB MAGAZINE 朱紺番』
藤原慎介『敢闘の記憶とフィールド』
投稿日時:2013/04/04(木) 00:18
いつしか欠かせない存在になっていた男は、やがてチームの将となった。2012年度関学ラグビー部『藤原組』のキャプテン・藤原慎介(商卒)へのラストインタビュー。自身について、チームについて、卒業にあたり語り明かした。
■藤原慎介『敢闘の記憶とフィールド』
卒業式の翌週、その1週間後には社会人という新しい舞台が開ける、“学生”として過ごす最後の1週間。その週初めに、昨年度に関学ラグビー部の主将を務めた男に時間を取ってもらった。これが、『藤原組』のラストインタビューになる。そう伝えると、一瞬寂しげな表情を浮かべたが、すぐに、普段見せる柔らかな顔つきに戻った。
実のところ、チームの戦いが終わった昨年末から会うのは久しぶりのこと。引退して卒業するまで顔を合わせていなかった。その期間、彼にとっては、つかの間の休息の時間でもあったのだろう。聞くところによれば、小学生時代から何かしらのスポーツに興じてきたという。高校から始めたラグビーも、果ては大学生活4年間も、“漬け”の日々だった。そして、それは4月から始まる次のステージでも。トップリーグ下部のトップイーストに籍を置く栗田工業への入社が決まっている。引退してからのこれまで、次第に意識はそちらへ向いていたようだ。
「自分のゲームよりも、トップリーグの試合とか。征克さん(西川=文卒/ナンバー8=現サントリー)凄いな、と思ったり。次のステージでやらせてもらえることを考えたら…上のレベルのプレーを、こんなラグビーを、って」
テレビでの試合観戦やビデオで、国内最高峰のプレーを見ていた。とき同じくして、自身が1年生だった頃の最高学年の先輩が、トップリーグの大一番で活躍を見せていたことも関心を高めた。かと言って、去年の、自らが率いたチームの戦いを彼方に追いやったわけではない。「見たら余計に悔しくなるんで」と話すように、振り返れば真っ先に出てくるのは、悔しい記憶。
インタビューのせきを切ったのは、リーグ戦で喫した2つの黒星についてだった。「天理戦は…勝てた試合でしたし。立命大戦を、『雨で負けた』とは言い訳で、結局は実力差。悔しいス。『晴れてたら』と思うときもあったけど、そのときの状況で勝てるかどうかが、そのチームの強さだと思うんで」
自身が船頭に立った一年、苦く辛い思いもした。こぼれた白星が、頂への道のりをふさいだ。目標を叶えることの出来なかった事実が、胸を覆う。それでも、誇れることが彼のなかで確たるものとして存在するからこそ、引退してからも表情に影が落ちることはない。抱く悔しさは、屈辱の傷ではなく、思い出のアクセントである。
「負けた試合があるんで…『あぁしとけば』と思うこともありますけど。でも、2年生のときから使ってもらったのは、ありがたいことですし。3年生のときはフル出場して、少なからず自信につながった。もちろん、全試合出続けたいし、全員の気持ちを背負って出てるわけですから、負けられないと。その点は、人一倍強く持っていました」
様々なポジションへのコンバートを経て、存在感を増していった藤原慎介は2年生次にレギュラーに抜擢。3年生次には公式戦フル出場を果たした。そうして最高学年になり、主将としてピッチに立つことになったのである。
藤原組がスタートして初めてのインタビューでも彼は「怪我しないことも、ゲームに出続けることも自分がキャプテンをやらせてもらっている理由」と語っていた。それから、まる1年間、公式戦全試合フル出場を果たし出てきた台詞は同じだった。「2年連続で出続けられたのもキャプテンやらせてもらえた理由です」。その双肩にチーム全員の思いを背負い、戦い続けた。
2年生にレギュラーとなり、自身のなかで沸き出た強き闘志。当時の主将・緑川昌樹(商卒/HO=現NTTドコモ)が奮闘する姿を目の当たりに、「緑川さんの為に頑張りたい。どうにか自分の力を発揮したい」とがむしゃらにプレーした。翌年、試合に出場する上級生がそれほどいなかったチーム事情を背景に、同回生とともに「チームを引っ張ろう。一緒に盛り上げれたら」と奮った。そして、最後の一年。「この人の為に頑張りたいと思ってもらえるようなキャプテンになれたら」と、かつて下級生の頃の自分が抱いた思いを持ってもらえるように志した。
高校時代に主将を務めた経験はあったが、「当たり前だけど、全然違うくて」。別次元の境地、そこで念頭に置いていたことは。
「やっぱり体を張って、声を出していくしかないなと。あとは常にミスをしたらいけないと。一つひとつの行動に責任が伴う。それまでは考える前に行動してたことも、一瞬考えてから行動するようになりました」
主将ならではの責任感と重圧を受けながらも、彼の性格でもあるであろう冷静に物事を捉える点はぶれなかったように思える。以前、マコーミックHCはこう話していた。「彼は、僕が見たこともないくらいすごく冷静。練習でもゲームでも同じパフォーマンスが出せるし、変わることがない。それは選手たちからも信頼できる点だと」。主将というポジションを経験した者が話す、キャプテンに求められるもの。どのフィールドでもベストパフォーマンスを発揮すること、だという。
それでも、ときに藤原は「僕がキャプテンをやっててエエんかなと、春シーズンが始まってからも思うときがありました」と告白する。チームを引っ張ることの難しさ、加えて大所帯となったチーム事情もさらに起因するなかでの苦悩。しかし前に進めたのは、やはり“仲間たちの存在”だった。
「ついてきてくれて、支えてくれた仲間には感謝してます。しゅっぴー(首藤聡一郎=社卒/WTB=)とか彰吾(石川=文4/HO=)が下のチームで、文句を言うことなく、自分たちの経験を踏まえて、まとめてくれた。練習中もすごく体を張ってくれたたし。下の学年の子たちから、『しゅっぴーさんがおらんかったら大変でした』って声も聞きましたしね。それを聞いたら嬉しかったです。僕もチーム全体を見ているつもりでも、練習中はトップチームのことと自分のことで精一杯になるんで。
まわりが本当に色々とやってくれました。ヤス(安田尚矢=人福卒/FL=)も悠太(春山=文卒/CTB=)も練習中に声出してくれますし。自分が高校からラグビー始めたこともあって、ラグビーのサインで分からないことも多くて。それを、まわりが埋めてくれた。越智(慶=人福卒=)も裏方の仕事をやってくれたり。
支えてもらって…僕がやることは誰よりも体を張って。ラグビーをやることが僕の役目だと、途中で気づかされました」
重責に伴う苦悩がいつ晴れるのか、答え無き難題に主将は必ず苛まれる。仲間たちの手助けによって緩和されることもあるし、シーズンが終わるまで解かれることはないのかもしれない。「(引退、卒業に際して)やっぱり寂しいですよ。もっと関学でラグビーが出来るならやりたかった。キャプテンって形じゃなくて、ね。次、社会人になったら1年目としてのラグビーが始まるけど、自分が大学1年の頃とか、もう覚えてない(笑)。自分が好きなようにラグビーが出来るっていう感覚なんて」
チームに一つしかないそのポジションが背負うものは自らを奮い立たせるカンフル剤でもあり、その副作用としてプレッシャーに付きまとわれることになる。けれども、それらを味わった上で藤原だけがたどり着けた世界がある。
「大変やったし嫌なことも多かったし…けど、それ以上に、得られるものは大きかったと。きれいごとや言われるかもしれないスけどね。同じ学年の誰よりも成長させてもらえたと思います!
毎年、一人しか経験させてもらえないですし…そもそも『大学のキャプテン』って、一生誰にも経験できない。ありがたいことです。これから先にも、つながってくることだと。今でも、やってて良かったなと思える瞬間ありますしね!」
自身が先頭に立って、突き進んだ一年も昨年の12月23日に聖地・花園にて終えんを迎えた。関東王者・筑波大にも真っ向から挑み、そして散った。主将は、最後までピッチに立っていた。「全部終わったんや、って気持ちが強かったです」。悔しさよりも、解放感が勝っていたのだろう。戦いが終わったことへの、ある種の安堵。「このグラウンドに入ることはもう無いんやろうな、って」。だが、藤原慎介のエピローグは、このときではなかった。
彼はオフシーズンの間に関西ラグビー協会のベスト15に選ばれることに。その表彰式の会場が花園だったのである。ファーストジャージを着用、スパイクも履いてのゲーム仕様で写真撮影が行なわれた。
「筑波大戦が終わってから初めてスパイクの袋を開けたんです。そしたら、靴に残ってた芝の匂いが、ぶわぁ、って出てきて」。あの長くも短くも感じられたシーズンを終えてから、再び降り立った聖地のグランド。「花園でラグビーしたいな、って思いと…負けた試合の悔しさがこみ上げてきました」
そのフィールドは、かつての自分では立つことなど想像もしなかった場所。高校時代は無縁そのもの。けれども大学でレギュラー入りを果たし、公式戦を初めて戦った会場が花園だった。そうして学生生活を締めくくったのも。聖地は、彼にとってスタート地点でありゴール地点でもあった。
朱紺のジャージを着ての戦いは、ここに完結した。そして、わずかながらの春休みを経て、次なる舞台へと歩を進める。それが花園でなくとも。いまそこに立つフィールドこそが、藤原慎介、彼自身の主戦場である。■(記事=朱紺番 坂口功将)