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『WEB MAGAZINE 朱紺番』

越智慶『ある主務の告白。完全版』

投稿日時:2013/03/27(水) 03:14

選手ではなく、スタッフとして。チームへの思いを還元してきた。藤原組の主務・越智慶(人福4)の真の誕生秘話。そこにあった決意、そして引退に際しての想いを告白する。

※文中、学年表記は2012年のものとしております。

 

■越智慶『ある主務の告白。完全版』
 


 藤原組の最後のゲームとなった2012年12月23日の全国大学選手権セカンドステージの筑波大戦。勝っても負けても、次は無いと定められた試合。その前日の晩、越智のもとに仲間から電話があったという。伝えられたメッセージはこうだ。

 

 「国立に連れていってやれなくてごめん。明日は、越智が主務になったことを後悔せぇへんプレーする」


 そのときのことを思い返し照れくさそうにしながら越智は話す。「そう言ってくれるだけで嬉しかったです。試合本番では、僕のこと考えずにプレーして欲しいなと思いました」


 朱紺のジャージと、だ円球を介して。互いの胸のなかにある思いを隠すことなく、共有しあえるメンバーばかりであった藤原組。そのチームで、越智は主務を務めた。



 毎年、必ず繰り広げられる光景がある。一つの学年が一堂に会し、考え、悩み、一つの決断を下す。そこで出た答えとは、たった一人の部員の、チームへの関わり方を大きく変えるものであり、同時にだ円球を手放すことを意味する。大学2年生次、彼らは翌シーズンから副務に、やがては最高学年で主務になる者を巡って、問答する。一人のラガーマンとして、関学ラグビー部の一員として。その光景は、未来の藤原組となる学年でも変わらなかった。


 「主務ミーティング」と称される話し合いの場。当時PRだった越智も、そこで候補に挙がった。部員間での投票で彼には2票ほどが、他方で7、8票を投じられた名前もあったという。最終的には越智とSH松本晃忠(社4)に絞られた。2つに1つ。彼らのどちらかがプレーヤーを辞し、スタッフとしてチームの運営に携わる。悩みに明け暮れ、決断のときが迫った。


 今日、結論を出さねばならない。迫られたXデイ当日に、越智は一人のOBから金言を授かる。グラウンドにやってきたのは小原正(社卒)。越智がまだ一年生だった頃の最高学年であり、関西2連覇を成し遂げた2009年「小原組」の主将である。居合わせたかつてのキャプテンに、越智は聞いてみた。当時の主務・小島祥平(文卒)のことを。返ってきた答えはこうだ。


 「コジには感謝してる。めちゃくちゃやってくれた。もうちょっとやってほしいこともあったけどね。

 コジがおったから、あそこまでやれた。コジの為にやらなアカン、って」


 その言葉を聞いたとき、越智は主務というポジションの核心に触れた気がした。それは、どれだけ労を費やしても、周りから求められるものが尽きることはないということ。もちろんそれだけが主務の真髄ではないが、後に越智が話していたことからもうかがえる。「主務の仕事って100点満点じゃないんです。それこそ5億点にだって出来る」のだと。


 やれども、やれども、満足に至らない。それでも、やり切れるところまでとことん出来たら? 越智にとっては、望むべき道でもあった。強さとはかけ離れた高校の出身ながら、「やり切った」という自信につながる経験を得るべく、朱紺の門を叩いた経緯がある。


 と同時に、もう一人の主務候補に挙がっていた松本に抱いた思いも、結論への一押しとなった。越智は振り返る。


 「自分が足首を怪我していたときにゲームのビデオを撮る役をしてて。そのときに晃忠がいつもと違った、良いプレーをしていたんです。選手生命を思い起こすことのないように、やってるんじゃないかと思えるくらいの。それを見て、こいつにはラグビーやって欲しい、って思った。パスして、走って、フォローして、FWとBKをつなげて。チームに必要なやつだと」


 命運が決する日。晩も、19時半頃だと記憶している。「主務ミーティング」も最後、結論を出すとき。康貴碩(経4)が最終候補2人に投げかける。「俺らは待つから、お前ら二人で答えを出してくれ」。


 悩み、考えた末に越智のなかで答えは出ていた。「関学ラグビーのために自分が何をやれるのか。それはスクラムでもなく、フィールドでもなく、主務である」。松本に決意を伝え、ここに未来の主務・越智慶が誕生した。


 「晃忠に『ありがとう、お前の分までやる』と言われたときに、ラグビーを辞めるんだと実感しました」



 

 そうして3年生次は副務として、当時の主務・松村宜明(法卒)のもとでチームの運営に臨んだ。共に務めた裏方業。前をゆく背中に、感銘を受けた。


 「言うてないのに、悩み聞いてくれたりしてもらって。そういう先輩になりたいと」


 目指す主務像をそこに見ていた。けれども、実際に自分が同じ立場になったときに違う部分、言い換えるならば自分ならではの強みにも気づいた。


 「松村さんになりたかった。けど、違う存在やなと気づいたんです。自分にしかないものがあったり。部員とのつながりとかそのぶん、わがまま聞かなアカンかったけど(笑)、選手との距離は近かったかな」


 それこそが主務・越智慶の真骨頂。年代の垣根を越えて培った数々の絆。彼が口を開けば出てくる、部員たちとの思い出話が尽きることはない。主務業に際しての原動力にもなったことだろう。


 かつては自分もだ円球を手にプレーしていたそのときの気持ちが備わっているからこそ、起こせるアクションもあった。シーズンも大詰め。藤原組の戦いも終幕に近づいた、年の暮れ。


 「選手やったときの気持ちがあったからこそ、下のチームにも試合やらせてあげたいと。引退のときに、30分3セットでもいいからやりたい、って話になって」


 果たして12月22日(選手権・筑波大戦の前日)に近畿大との練習試合が実現した。例年に無かった4回生主体の対戦カードも組み込まれることになった。その引退試合は、萩井好次監督の粋なお許しも手伝って、ファーストジャージの着用と「出陣の歌」を歌うという、まさに公式戦仕様に。FL重田翔太(人福4)が先導し、朱紺の闘士たちはプレーに興じた。


 その仲間たちの姿を見ながら、越智は感慨にふけっていた。「1年生のときに、下のチームで一緒にやってたメンバーが自分がスタッフなってからがんがん上のチームに上がったりして。嬉しくもあり、寂しくもありました。でも、スタッフとなった者だけの、醍醐味かなとも思います」


 横を見れば、同じくスタッフとしてチームに携わる同期の姿がいる。トレーナー・水野正蔵(法4)、サポートコーチ・永渕雅大(経4)。彼らは最後になっても、プレーすることはなかった。越智は話す。


 「3人とも出たいな、というのはあったと。それでも、どれだけ裏方に徹せられるかを思ってて徹せられたかな。選手に『お前らも出たないん?』と言わせないことを心がけてたんで」


 ピッチへの思いは、選手たちに託していた。リーグ戦最終戦にて、越智はメンバーに「俺のぶんまで頼むわ」と伝えたことを明かした。


 加えて、リーグ戦にさなかに松本がレギュラー入りしたことも喜んでいた。「自分が試合に出たときよりも嬉しかった。4回生みんな、僕の思いも背負って戦ってくれているのを分かってたんで」



 そして訪れた最後の日。筑波大戦のアップ時に、あらためて感動が胸の内を巡ったという。「これ見るのも最後やな、と。いい空気のまま、この日に来れたことが嬉しかった。本当に誰に頼んでも信頼できる、良いアップが出来るメンバーで。良いときに主務やらせてもらえたかなと」。その思いは、スタッフに転身してから、とりわけこの一年間はずっと抱いていたものだろう。


 裏方に回ることを決断したあのとき、仲間たちからは目頭が熱くなるような激励の言葉を幾つももらった。「お前の為なら」「お前のぶんまで」


 「凄いなと思える奴らから、そう言われるのはありがたいことで。俺が主務という形で関学ラグビーをやる価値がある、と。命がけでやろう」と決めた。その最高の仲間たちがいてくれたからこそ、引退してからも充実感が越智の手にはある。


 「同期がいなかったら、手に入らなかったですからね。やり切った気持ちあります。そのぶん、選手たちにはプレーをやり切らせてあげれたかなと。一生、一緒にいたいですね!」


 プレーヤーとサポーターが互いの気持ちを胸に、そして互いのために走り切った。越智はふと口にした。「ラグビーって、15人でも出来ないですよね」


 おそらくは、足りない。越智が大学4年間の末に手にしたものを得ろうとしても、15人という数字では足りない。選手、スタッフ、先輩、後輩、そして同期。だ円球でつながった大きな輪のなかに、彼はいた。


 「どんな人が関学ラグビーをしてきて、どんな思いで支えてくれるのかを知れた良い機会だった。それは主務にならないと分からなかったものです。

 これからはOBとして現役に一番近いOBなんで、出来ることもあるかなと。何かあるときに頼ってくれたら嬉しいですね!仲良くできたらいいなと思います」


 4年間で綴られた越智慶と関学ラグビー部がおりなすストーリーは、新章へ。引退は、終わりではなく、始まりでもあるのだ。(記事=朱紺番 坂口功将)