『WEB MAGAZINE 朱紺番』
永渕雅大『その献身は、オリジナル』
投稿日時:2013/02/19(火) 01:35
■永渕雅大『その献身は、オリジナル』
まさに偶然、タイミングが合致した。3年生次に海外留学を決行し、そして大学4年目。永渕が留学先から帰ってきた際に、チームに新しいコーチがやってきた。アンドリュー・マコーミック、王国生まれ舶来の闘将。
こちらも偶然に同じニュージーランドに留学していた部員がいることを、チームメイトたちは新HCに紹介した。永渕は振り返る。
「最初にアンガスさんに会ったときに、まわりが『ブチは留学していた』と。そしたらアンガスさんが『通訳はお願いするよ!』って」
藤原組が始動するにあたっての、マコーミック氏の参画。選手としてもコーチとしても幾多の実績を残してきた外国人コーチがチームに加わったのである。その存在から永渕へ託された役目、それは通訳という、インターナショナルな要素が絡んだ、指導者と部員たちの橋渡しだった。
「緊張は無かったですね…外国人慣れしてたのはあったんで。一目見ればエエ人やと分かる人やったんで、すごい人柄を感じました。気さくなお父さん、少年の心を持った(笑)
とにかくアンガスさんがチームに馴染めるように。今までプロのチームでやってて、そのときよりもコーチ業をしにくくなったらアカンと。出来ることは全部して、手助けできたらなと思ってました」
マコーミックHCは日本語を〝聞き〟〝話す〟ことは出来る(当の本人が言うに、自身の現役時代の方がもっと話せたとか)が、〝読む〟ことは出来ない。そこで永渕が日本語の文面を英訳するというわけだ。OB会にむけたプレゼンテーションの資料作りも、パワーポイントを駆使し一緒に作ったという。
留学の恩恵を浴びる形で、通訳の役割に務めた。だが苦労もあった。それは英語と日本語を変換することの、難しさ。
「通訳って、こんなに難しいもんなんだ、と。ニュージーランドで日常的な会話はしてたけど…英語でも、戦術的な部分で独特の表現があって。長い文章とかになると日本語に訳する作業が追いつかなくなったり。『まずCTBがSOに当たって、順目に展開』とか、どう変換するのか(笑)。アンガスさんが言いたいことと、自分が言ったことが違うかったらダメなんで。そこはもう僕個人の問題なんで、リスニング磨きました」
つまりは、かなり重要なポジションだったわけである。確かに、マコーミックHCが合流してから、練習時にホワイトボードに記載されるメニューが英語表記になったりと、HCの伝えたい内容を表現しやすい方法が取られていた。永渕自身も、練習が終わった後に語学の勉強に励んだ。
「通訳の仕事は全然果たせてなかったです」と本人は話すが、引退してなお大学に残るため、いまはマコーミックHCから「右腕になってくれ」とオファーがかかるほど。学生内では唯一の存在である通訳への信頼は厚いようだ。
しかし、実のところ永渕の大学4年目は順風な出だしではなかった。留学から帰ってきた時へ話を巻き戻そう。
3年生次にチームを離れていた一年間でチームの方針は変わっていた。4年生になり戻ってきた際に、プレーヤーとして合流することはならなくなっていたのである。このとき永渕が選んだ道は。
「辞めるという選択肢もあったけど、『戻ってこい』と言うてくれる同期たちがいて、友情に応えたいと。スタッフでもいいから、部におらして下さいと話しました」
こうしてスタッフに転身した永渕はチームへの働きかけを念頭に置き日々を過ごしていくことになる。就いた役職はサポートコーチ。その役割は、というよりも彼自身が進んでこなした仕事は多岐にわたった。
「チームのプラスになるものがあると思ったら、望んで手を上げてました」
春先、例年のことであるが人手に欠くポジションの代表格ともいえる「レフェリー」の資格を、トレーナー水野正蔵(法4)とともに取得した。これまではチームに一人いれば御の字であったが、それではアタックディフェンスの練習が限られてしまう。笛を吹くことが出来る人間が二人いることで、上のチームのみならず下のチームも試合形式の練習が出来るようになった。ルールへの理解を深めることは不可欠であったが、このことは別の仕事でも活きた。「分析」班の仕事である。
こちらも、過去の例を見れば選手が兼任の形で務めていたもの。秋の公式戦に臨むにつれ深く取り組んでいく形が常であったが、「春から担当した奴がやって、シーズンにむけてやれたら」と、永渕はその流れを変えた。分析をサポートコーチの役割と位置づけ、一回生たちと仕事に当たった。
「試合でのタックル回数とか、誰がどんな反応をしたのか、とか。それに基づいて、選手たちの出来を判断するんです」
試合中はビデオ撮影を行ない、持ち込んだパソコンを広げ、試合が終わるや編集作業に当たる班員たち。その後の練習時のホワイトボードには、『ラインアウト成功回数/失敗回数』『タックル成功回数/失敗回数』といった集計結果が張り出されていた。また実戦形式も含めた練習風景などを動画サイトにアップし、部員たちが共通して理解しえる為に閲覧できる環境も整えた。
ここに記した「レフェリー」と「分析」に加え、選手たちの練習メニューを支える「コーチ」の3つがサポートコーチの役目だった。一つひとつの役職は、同期や後輩たちと担ったが、その新設されたポジションを始動させたとき永渕は悩みに暮れた。なにせ、これらを一まとめに、まして当初は実質一人で取り組んだのである。自分が進んで選んだ道、それは他の誰もが通ったことの無い道でもあった。「プレッシャーすごかったです」と明かすが、その折に自身の背中を押してくれた言葉があるという。
「4月くらいですかね…悩んでいるときに辰見さん(コンディショニングコーチ)から『1から100を作るのは、先輩がいるから簡単だけど、0から1を作る作業が一番しんどい。ブチ(永渕)は、0から1を作ろうとしているところ。1を作れたら、それはこれからのラグビー部にとって大きな100になっていく。だから今、頑張れ!』って。一番、残っている言葉です」
選手として部に戻ってくるつもりだったラストイヤー。プレーへの思いはなかなか褪せることはなく、しかし春シーズンの一つの試合で気持ちも固まった。6月10日の天理大戦、ウォーター係としてグラウンドに立った永渕はチームの勝利に、違う角度からの感動を覚える。
「それまで選手としてやりたい気持ちはあったんですけど、試合に勝ってチームが喜んでいる姿を見て、裏で支えて力を尽くすことが、どんだけ嬉しいことなんか、と」
スタッフとして関学ラグビーと向き合うことに気持ちが切り替わった瞬間であった。
サポートコーチ、それはオールマイティーが同義語であり、同時に永渕雅大そのものを表す。選手の立場からは一歩外れ、それでも多方面から選手たちを支えること。そして何よりも、自らの居場所を見つけるためにラストイヤーで繰り広げた彼自身の戦いでもあった。
「やるべきことはやりつくしました。それも用意されたものだけじゃなくて、グラウンド内で感じ取ったりしてチームに必要なものを探し続けた1年でした。今では必要とされてる存在だと?…まわりの選手たちが判断することですからね!」
引退したいま、後に続く後輩サポートコーチたちへの指導も視野にはある。だが、それは自分の居場所を探すものではなく、これからのチームの発展を願うものになるだろう。それが、いずれは〝100〟という果実になる。
サポートコーチという特異なポジションが関学ラグビー部にとって多大なる献身を指し示すようになったとき。そこには、永渕雅大が〝0〟から開拓した〝1〟の土壌があったことを忘れてはならない。■(記事=朱紺番 坂口功将)