「小原組~ALL OUT~」
『スピードスターは止まらない。』
投稿日時:2009/10/19(月) 23:14
2009年、激動の上半期を送ったラガーマンがいる。関学が誇るスピードスター、長野直樹(社3)。大学はもちろん、ナショナルチームでも活躍の場を与えられたウィンガーは、その常人とはかけ離れたシーズンをどのように過ごしてきたのか。そこにあった思い、そしてこの先に見つめるものに迫った。
【激動のシーズン】
ここに楕円球を手にした一人の人物がいる。大学の友人は『〝ラグビー部〟の長野』と説明するだろう。他大学のジャージを着るラガーマンは『〝関学のWTB〟長野直樹』とにらむだろう。はたまた日本ラグビー協会の方は言うだろう、『〝U-20日本代表〟の長野直樹』と。
彼の肩書きは関学ラグビー部のなかでも尋常なものではない。『セブンズ(7人制ラグビー)日本代表』『U-20日本代表』という驚くもの。長野直樹は2009年をそうした肩書きとともに過ごしてきた。
激動のシーズンの始まりは年初めになる。大学選手権もチームとしては幕を閉じ、まわりの大学生はオフに入る時期。だが長野は次なる戦いへの準備に身を投じていた。
「みんなが休んでるときに活動してて。1年持つかなって」
上半期の長野の動向は大きく3つに分けられる。
まず長野は6月に開催される『U-20世界選手権』に召集されていた。大会への選考も兼ねられた合宿へは当然気持ちが高まる。昨年暮れのケガからも復帰し、代表に選出されるためにパフォーマンスを発揮する必要があった。
「去年(代表から)落ちたんで、リベンジしてやろうと」
1月の時点でオフどころではなく、ましてや『U-20日本代表〝候補〟』長野直樹にとって半年にも渡る勝負はここから始まっていた。
と同時に『セブンズ日本代表』としての戦いも進行した。2月中旬のアメリカ・サンディエゴ大会と3月のW杯ドバイ大会。こちらは日本代表として海を渡ることになっていた。
そして最後に、本来の『関学』というチームとしての活動。
そのハードワークは想像するに容易い。
▲昨シーズンのラストゲーム。涙するも、次なる戦いはすぐそこに迫っていた。(08年12月28日:法政大戦)
【ラガーマン長野の成長】
「スタッフの方々がすごい面子で。いろんなトコから自分を見られた。アドバイスいただいて…。すごい締まった雰囲気のなかで、一回一回の合宿が濃いものやった」
複数回にわたる代表強化合宿のなかで長野は己のパフォーマンスを高めながら過ごした。確かな成長がそこにはあった。「精神面でも、プレー面でも」―。
「今年はいろいろ試したりで。キックも練習したりするし…。〝外〟勝負もそうやし、〝内〟でも。自分にとって〝外〟は一つの武器やけど、そこで的をしぼらせずに。その結果、内でも外でも勝負できたら」
自慢の足を生かすことはもちろんだが、それだけではダメ。相手DFと真正面から当たっていくことを意識し、WTBとしてのレベルアップを図った。昨シーズンは、代表選考を落ちた理由の一つであったディフェンス力を磨き、今年はそれを踏まえたうえでのさらなる成長を見せつけた。 そうして着々と選考をクリアした長野は最終合宿まで駒を進める。
一方、もう3年目になるセブンズの国際舞台は、またも長野を大きくさせた。
「今まではついていくだけだったんスけど、監督から『(セブンズ代表は)ころころ選手が変わっていく。学生やから遠慮したらあかん』と言われて。一番年下なのはやりやすかったんスけど、3年目の自覚を持つようになった」
史上最年少でセブンズ代表に選出された男も様々な舞台を経験し月日は流れた。その「ころころ変わる」チーム編成のなかで先発の座を射止めるられるかは大会規模によって異なり、長野がスタメンに確約されていることはない。
2月のサンディエゴ大会も、3月のW杯ドバイ大会もスタメンではなかった。それでも「チームの勝利に貢献したくて。限られたなかでどうアピールするかを考えた結果」、アメリカ西海岸で1トライをあげている。
ではベンチ入りもしないシャドーメンバーだったドバイでは。
「舞台にいれるだけで違うかった。気持ちが選手全員入ってて。相手を殺しにいくんじゃないスけど、それぐらいの気迫が伝わった。トップでやっていくには、こうした気持ちでないとって」
春まっさかり、厳しい代表合宿をくぐりぬけ、同時に国際舞台での経験を得た長野は、上半期の締めくくりとして6月の「U20世界選手権」本番をむかえていた。
▲春シーズンは朱紺のジャージを着ることなく。(5月2日:法政大戦)
【挫折、そして一転】
自国開催で盛り上がりを見せる世界選手権。その開幕直前、長野は最後の最後で代表スコッドから外された。
ケガ人が出た場合の入れ替え要員、として日本代表に身を置きながらも、彼は大学に戻ってきた。
「結局自分がふがいなかった。合宿が進めば進むほど、実力が足りないのも分かった。練習もっとしないとな、と思った」
選手権が開幕し、若き日本代表が世界と戦う。そこに自分はいない。挫折を味わった。
が、事態は一変する。偶然ながら、W杯の開催時期と関学ラグビー部の関東遠征のタイミングが重なっていた。リザーブながらも関東遠征の関東大戦が長野の復帰戦の予定だった。しかし当日のグラウンドに姿はない。日本代表は初戦でケガ人が出てしまい、長野に再召集の声がかかったのである。
「同じ舞台に立てるのが嬉しかった。捨てるもんが何もなく。一度落ちた身、絶対試合に出てやろう」
再び桜のジャージを着られることになった。そして念願の代表デビューを飾る。
「U19、セブンズとは違ってホームなんで、あんないっぱいの観客のなかで試合するのが初めて。興奮した」
予選グループ最終試合のスコットランド戦(6月13日)。結局出場したのはこの1試合のみ。それ以外は出場機会すらなく。けれども、彼は腐ることはなかった。
「出れなかったときに、岩渕(アシスタントマネージャー)さんが『やってればチャンスはくる。絶対腐らんと、チャンスがきたら掴まなあかんぞ』って。(スコットランド戦の)あそこしか見せるとこなかったんで、必死に」
挫折の果てに、わずかな時間だけの代表だったが、長野を強くさせた。精神面での成長が大きいに違いない。
「長かったス。いざ離れるとさみしかった(笑)。いろんなことを学んだ期間」
こうして世界選手権における長野の長き戦いは幕を閉じた。
▲チームに帰ってきた際、誰もがそのパフォーマンスに驚愕した。(7月5日:大体大戦)
【朱紺の闘士へカムバック】
激動のシーズンはこれで終わったわけではない。6月下旬に日本代表の身を解かれるやいなや、すぐさまチームに合流した。それまでは選手権の日本代表、レギュラーになることに必死だった。むろん、関西に帰ってきた際にはチームの仲間が何よりも心のよりどころであったが、戦闘集団の一員として加わることはなかった。
「試合重ねてチームは目の色が変わってた。気を引き締めて頑張らないと」
6月28日の立命大戦の後半から『関学』長野はグラウンドに立った。トライをあげることはなかったが、試合終了後にベンチで大崎監督から「ここから序々に関学の一員に戻ろう」と声をかけられた。その1週間後には、3トライを決める活躍で完全カムバックを遂げた。
9月の半ば。桜のジャージとは一旦お別れし、朱紺のジャージだけに目がいっている。そして、嬉しくもあり辛くもあった半年間で得たものを今の自分に還元している。
「(代表合宿で)自分は1コ上やったんで、後輩がミスしたときに萩本(アドバイザー)さんから『厳しさがない。優しいだけの先輩になってしまっている』と言われて。実際そうやな、と。関学でもちょっとずつ。まだ甘い部分あるけど変えていけたら」
上級生になった今年は「下を引っ張っていこう」と意識を持って臨んでいる。『先輩』長野にも期待が持てる。
プレー面でも同じく。仲間への感謝を感じながらステップアップに励んでいる。
「(菅平では)個人的には思うように出来なかった。仲間が『今なら〝外〟勝負じゃないか』とかアドバイスくれて。細かいことやけど、言ってくれることはありがたいこと。聞くようにして、弱点が分かって、成果が上げれた」
ラグビーをはじめていまだ6年。縁あって日本代表に選出されることもあり、高いレベルに挑戦してきた。そのたびに、長野は進化を遂げてきた。この先、どこまで楕円球を追い続けるのか。
「スコットランド戦で何も出来ずに負けたんで、倒したいというのはある」
リベンジを果たすのは、もはや15人制代表のステージか。「やれるとこまでやってみたい」と長野。
スピードスターは止まらない。■
▲リーグ2戦目で、今季初トライを飾った。
(文=朱紺番 坂口功将)