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『WEB MAGAZINE 朱紺番』

畑中啓吾&進吾『ツインズ、珠玉の兄弟ゲンカ THE FINAL』

投稿日時:2013/10/10(木) 00:55

 聖地を駆け抜けた双星は、それぞれの描く線に沿って二つに分かれ、やがて二度三度とぶつかりあった。そうして最後の激突のときが、いま訪れる。

 なんて、漫画のようなストーリー展開に周囲は胸を躍らせる。一方、そんな喧騒もよそに当の本人たちは

<学年表記は2013年現在のもの>

 

■畑中啓吾&進吾『ツインズ、珠玉の兄弟ゲンカ THE FINAL

 


 

 その日ばかりは、普段とはうってかわって、ギクシャクとした空気が流れてしまうのだという。


 はっきりと分けられる勝者と敗者。勝負の世界では常だ。けれどもラグビーという競技だけは、その線引きを踏まえたうえで、戦いが終われば肩を組み合い、杯を交わす。それを『ノーサイドの精神』と人は言う。


 しかし、常に衣食住を一緒に、ましてや生まれてこのかた人生をともに歩んできたもの同士にとっては、そんな精神も吹き飛んでしまう。勝利した側は喜びにドヤ顔を見せ、敗北した側はフテ寝で部屋にこもる。それが、この3年間で三度、畑中家において見られた光景である。


 「(試合の)前日は若干、ピリピリしてた。勝負やから。絶対どっちかが勝つっていうね」


 そう明かすのは、畑中康佑(関西学院大学商学部卒)。長兄そして先輩として彼らを見守ってきた存在。「どっちに対しても厳しく。ほめることはないっス」と断言するからに、見守るという表現は似合わなくとも、実は、この男がもっとも楽しんでいるのではと勘ぐりたくなる。


 かつては兄である彼自身も加わっていた。兄弟対決と言えば少なくはないが、それが『双子による』ものであればどうだろう。畑中家で繰り広げられるのは、そんな滅多に見られないバトル。主人公は二人の、双子の弟。そう、『畑中ツインズ』である。



             左:畑中啓吾 右:畑中進吾


 平成3年5月24日。畑中家に、2つの命が誕生した。母親のお腹のなかで、よく動いていた方を進む意味合いから『進吾』と、どちらかといえばジッとしていた方を考えて動くようにと『啓吾』とそれぞれ名づけられた。双子の兄弟、厳密にいえば20分ほど先に産まれた『啓吾』が兄に当たるのだとか。


 二人は物心ついた頃には、だ円球を手にとっていた。というのも、先がけること2年。兄である康佑がラグビーをしていたのだ。本人曰く、「野球で甲子園を目指したかった」そうだが、彼が小学校3年生のときにラグビーをやるよう親に言われて始めた。そのご両親はラグビーに関して未経験者だったというから、運命の歯車はどこでどう回るか分からないものである。


 そうして兄の先導もあって、小学校2年生になった啓吾と進吾の二人はラグビーに興じ始める。幼少期は堺ラグビースクールに通った。中学生時代も同じくスクールには在籍していたものの、学校にラグビー部はなかった。


 大阪市と違い、堺市はラグビーはそれほど普及していない。偶然にも、二人が中学生になったと同じ時期に、金岡北中学校に市内初となるラグビー部が創設され、小阪中(東大阪市)を近畿の頂点に導いたという先生が指導者として赴任した。


 そこで二人は金岡北中学校に通うことを決断する。自転車で片道1時間ほど。授業終わりに駆けつけ、練習に参加する日々。いわば武者修行に打って出たというわけだ。その金岡北中ラグビー部にて指導者から薫陶を授かり、二人はメキメキと上達していく。さすがに在校生ではないので、公式戦に出ることはなかったが。


 「良い経験になりました。そこで体の作り方やラグビーの仕方も学びました」と話すは啓吾。いまも大学の朝練には日が昇る頃に通学しているが、そんな過酷さもこの時代に経験済み。夏休みなどは朝一番に兄弟揃って、家を出発していた。そこから「練習して、熱中症予防で9時には切り上げて。昼寝の時間があったり、夏休みの宿題をする勉強の時間も取られて昼にはプールリカバリーも。プールでラグビーをしたりして、結局はトレーニングなんですけどね。朝5時に出て、帰ってくるのが7時くらいでした」。真夏の思い出を、進吾は懐かしそうに振り返った。


 二人は明言する。中学生時代そして高校と過ごした6年という歳月が、自分たちのラグビー人生において大きな意味を持つ時期であったと。


 そうして中学からの進学。前を行く兄・康佑の影響もあり、二人は大阪のラグビー強豪校の一角・東海大仰星高校の門を叩く。後に『畑中ツインズ』として花園を沸かすことになる高校生ラガーマンの出発地点である。


 さて、ともにだ円球を追いかける日々を過ごしてきたわけだが、二人のポジションは別々。進吾は主にCTB、啓吾はWTB(かつてはSH)。13番に14番と、背番号が並ぶことも少なくない。


 高校時代、彼ら二人は同じタイミングでレギュラー入りを果たした。ピッチで繰り出されたのは、ツインズならではのと思いきや、本人たちは話す。「阿吽の呼吸なんて言われてましたけど、したことないなぁ、って」と啓吾が言えば、進吾も「普通のパスですよ」ときっぱり。横並びのポジション、血の通った兄弟。しかしフィールドでは、チームメイト同士の至極普通のパスワークだったのである。


 それでも、周囲はチームをリードする二人にスポットライトを当てた。全国大会の予選・大阪府決勝では勝利し、『恐怖の双子、現る』なんて見出しがメディアに出た。「僕、そのときインフルエンザかかってて全然だったんですけどね」と啓吾。


 冬の花園では、東海大仰星高として数年ぶりの初戦突破を果たした。その試合で一つ目のトライを挙げたのが進吾、それに啓吾も続いた。「『二人が負の連鎖を断ち切った』みたいな感じで出てました」と進吾。


 まわりの選手たちと同じように、ただし注目の的となって。全国の頂点を目指し汗を流した二人のラガーマンは、『畑中ツインズ』として、フィールドを駆け抜け、冬の聖地を沸かせた。


 高校3年間を終えたとき、二人はまったく同じ道を一緒に歩んで実に10年ほどの歳月を経ていた。



 畑中家の日常。家のリビングのテレビで流れるは、大体はラグビー。高校から大学、トップリーグと国内はカテゴリーを問わず。海外のラグビーシーンも網羅している。兄・康佑も加わり、兄弟全員が揃えば、その会話や見事なもの。「3人とも好きなんですよね。語るというか見るのが」と啓吾が話すように、選手のプロフィールをはじめ、プレー内容やルールまで、誰かが口走れば、それに呼応するように会話の糸を紡いでいく。


 物心ついた頃から関心を寄せていたこともあって、その賢者ぶりたるは。啓吾曰く、「アンガスさん(アンドリュー・マコーミック現関学HC)の現役時代も見てました。あのときのジャパンは1番から15番まで言えますからね!」


 その画面に映る主役が自分たちとなる(二人の場合は、高校生時代からでもあるが)舞台へと当然のように、二人は歩みを進める。次なるステージは、大学ラグビー。


 ここでも兄・康佑の進学した関学へ揃っていくものだと思われていた。だが、ラグビーを始めてこのかたついに、競技人生で初めて! ツインズはたもとを分かつことになった。啓吾は兄と同じ関学へ、進吾は関大へ入学した。


 この兄弟にとっては同じ環境にいることが、もはや当たり前だったのだろう。「二人揃って大学へ」


 3人のなかで唯一、違う道へ踏み出した進吾(関西大学社会学部4回生)は当時の胸中を明かす。


 「進学する候補のなかに関学もあったけど縁というか、良いタイミングで関大に声をかけてもらった。(当時)二部というのは知ってたんですけど、先生に話を聞いてもらったりして。関大を一部に上げるために勝負する、という」


 進吾の選択した道には、長年連れ添ったたちはいない。ましてや関大は二部で、関学は一部=関西大学Aリーグに位置している。通常であれば兄弟たちが交わることがない。


 けれども、これを宿命といえようか。お互いが関学と関大という学校を選んだからこそ『畑中ツインズ』は、別の意味合いを持つようになる。まれに見る、珠玉の兄弟対決へと。


 年に一度の祭典、関西を代表する二校による"バーシティマッチ"。『関関戦』が用意されていたのだ。


 二人が対戦する。それは畑中家にとっても、これまでに経験をしたことがない状況だった。その前日は「ピリピリしたり緊張するタイプなんで、たぶん二人とも。対戦相手が一緒に横で飯を食べてるというのは、変な感じがしました」と進吾。


 そうして始まったゲームを、啓吾(関西学院大学商学部4回生)は述懐する。「なんか、変な感じ。しかも、兄貴も出とったんで。僕がボール持って、進吾がタックル入ってきて、兄貴がオーバーする、って」


 康佑もピッチに立ち、なんと3兄弟揃いぶみとなったその対戦は関大に軍配が上がる。それは畑中家の日常風景が、初めての形で崩れた日でもあった。帰宅した兄弟たち。しょんぼりし2階の部屋へそそくさと戻るたちをよそに、上機嫌で居座る進吾の姿がリビングにあった。


 その翌年、二度目となる直接対決の場。「前日の、戦う前の雰囲気は『またきたな』という感じ。慣れた、というか」と進吾は語る。むろん非日常的な対決の場ではあるのだが、この頃の彼にとってはチーム全体としての姿勢を背負ってもいた。「勝ちたい気持ちは僕もあったんですけど、チームとして勝ちにいく意識があったんですね。Bリーグやから、Aリーグやからこそ、と。勝ったときは、嬉しかったですね」。またしても、関大が勝利したのであった。


 「3回目は、もう負けられないですね」。過去の対戦での苦い思い出を踏まえ、大学ラストイヤーの今季、関学で主将に就いた啓吾は春先にそう話した。もとより負けず嫌い。三度、土をつけられてなるものか。


 今年の4月21日、花園ラグビー場で開催された『大阪ラグビーカーニバル』において、総合関関戦の位置づけも含まれて関学と関大の対戦カードが組まれた。進吾にとっては高校時代以来の花園のピッチだった。「これまでとは違う雰囲気でした」


 そのゲームではこんな一場面が。ゴール直前までボールを運んだ進吾を、最後ライン際で止めたのは啓吾。その距離わずか、ゴールラインまで1メートルいや50センチほどだったとか。


 そんなシーンがあったものだから、双子対決の白熱ぶりだと周囲は盛り上がる。そうした声も、啓吾は一蹴する。


 「タックルしたときは気付いてなくて。それも、進吾だからめちゃめちゃタックルいったとか言うわけでもなくて、普通のいち相手プレーヤーを止めただけです。誰が来ても、そういうプレーをするやろうと」



 啓吾と進吾の二人が揃った直接対決は、総合関関戦として三度執り行われてきた。結果は、進吾の2勝1敗。その彼らの大学ラグビー生活最後となる今年は、もう一度だけ対戦の機会がめぐってくる。今季から関大が一部に昇格したため、関西大学Aリーグにおいても試合があるのだ。


 そんな展開だが、入学した当初は「関学には負けられないな」と関関戦での出場を意気込んでいた進吾も、年月を経て気概は変わったそう。「Aリーグでやれるというのが嬉しくて。そのうえで関学とやれるのは、Aリーグで試合が出来ることの喜びに、ついてきたものです」

 

 ラグビーを始めてから、ずっと一緒にプレーをしてきた。畑中家の双子としてピッチに立った。けれども、そこではあくまでもチームメイトとして互いを捉えていた。


 そこから、一転して勝利を奪い合う対戦相手に。かといって、とりたてて意識することはない。タックル一つにしても「誰が来ようと必死に」(進吾)いけば、「止めてみたら、あとから『お前か!』」(啓吾)と判明する。あくまでも対峙するフィフティーンの一人。


 ただ、そんな双子だからこそ味わえるラグビー人生も、そろそろ当の本人たちはお腹いっぱいの様子だ。社会人になっても競技は続けるが、身を置く環境は異なり、加えて対戦する機会も無いのだという。「もういいや、って感じです(笑)」とツインズは口を揃える。


 ならば、人生最後の対決は、どのような気持ちでむかえるのだろうか。


啓吾 「まったく意識せぇへんといったら違うかもしれないですけど多少なりの兄弟というね。けど、関学のキャプテンという意識が強い。チームを勝たせるのが僕の役目なんで。一戦一戦、関大だろうが天理大だろうが、兄弟がいようが友達がいようが、勝つ!」


進吾 「個人的には思う部分も。けど、関大ラグビー部という立場からすると、一戦一戦、挑戦しないといけない。勝たないといけない相手のなかに、たまたま兄弟がいるという感覚の方が大きいです。勝ちたい気持ちはありますけどそれは関学だけにじゃなくて。勝ちたいですね!」


 そもそも「めちゃくちゃ仲エエですよ」と兄貴が話すほどの間柄。実は、試合に際しても、もちろん戦術的なことは一切明かすことはないが、駆け引きもする。いつかの試合では、啓吾から「お前、こっちにキック蹴ってくるんやろ?」と誘えば、本当に進吾が蹴ってきた、なんてことも。


 『兄弟ゲンカ』という単語は、ふさわしくないのかもしれない。それでも表現するならば、やっぱりこれはツインズのケンカだ。


 その様子を見つめてきた、お母様の胸の内を最後に。


 「見てる自分がどうなるんやろう?って。自分の気持ちが、ね。楽しみで。関関戦では両方の応援をしてしまってて次は公式戦だから。重みがね~違うから」


 きたる10月13日。試合が終わったあと、畑中家は果たしてどうなる(記事=朱紺番 坂口功将<広報担当>)


この場をお借りして、このたび取材にご協力いただいたご家族の皆様に感謝の意を申し上げたいと思います。ありがとうございました。

関連リンク:畑中啓吾「VISION」